2013年04月19日
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
|武田信玄の名言から
甲斐の戦国大名武田信玄の一代記といってよい『甲陽軍鑑』という本がある。信玄の重臣の一人だった高坂弾正(こうさかだんじょう)昌信が、信玄死後、そのほとんどを書き、そのあと、昌信の甥 春日惣次郎らが書きつぎ、それを江戸時代のはじめ、軍学者の小幡勘兵衛景憲(かげのり)がまとめたといわれる本である。
もっとも、この『甲陽軍鑑』は、40年ほど前までは偽書扱いをされていた。というのは、その頃までは架空の軍師だった山本勘助のことが、かなり書き込まれていたからであった。
ところが、その後、山本勘助が、たしかな文書の出現によって実在が証明され、偽書というレッテルを貼られていた『甲陽軍鑑』の見直しが進められた結果、今日では、「史実と合致しない部分もあるが、使える部分も多い」といったとらえ方となっている。
その『甲陽軍鑑』に、日常、信玄がしゃべっていた言葉が随所に筆録されており、よく知られるものとして、七分勝ちといったものがある。これは、「ゆミやの儀、勝負の事、十分を六分七分のかちハ、十分のかちなり」というもので、合戦では、六部か七部くらいの勝ち方が理想的だといったくだりである。その理由について、信玄は、「八分のかちハあやうし、九分十分のかちはみたま大まけの下つくり也」といっている。
完勝してしまうと、奢り(おごり)の気持ちや、油断が生じ、つぎの戦いで負けてしまうので、七分くらいの勝ちを理想的な勝ち方と考えていたことがわかる。
私が『甲陽軍鑑』に採録されている信玄のいくつかの名言の中で、一番注目しているのは次の言葉である。原文は、
国持つ大将、人をつかふに、ひとむきの侍をすき候て、其そうきやうする者共、おなじぎやう儀さはうの人計、念比(ねんごろ)してめしつかふ事、信玄は大きにきらふたり。
とある。漢字交じりで現代風に書けば、「国持大将、人を使うに、一向きの侍を好き候て、その崇敬する者共、同じ行儀・作法の人ばかり、念比して召し使う事、信玄は大いに嫌いたり」となる。
「一向きの侍」とは、自分と同じ方向を向いている家臣のことで、自分のことを崇敬し、しかも同じような行儀・作法をする者を自分のまわりに置きたくないという意味である。いま風ないい方をすれば、「イエスマンばかりでまわりを固めたくない」といったところであろうか。
上に立つと、下からあまり苦言をいわれたくないと考えがちで、どうしても、反対意見をいう者を遠ざけてしまいがちである。信玄は、寵臣(ちょうしん)に取りかこまれた大名が没落していったことをよく知っていたのであろう。諫言(かんげん)がいえる、すなわち、自分を諌(いさ)めてくれる家臣を側に置くよう心がけていたのである。
|補佐役の重要性を物語る晩年の秀吉
諫言がいえる家臣となると、どうしてもある程度限られてくる。下っ端の家臣では、立場上、諫言などできない。いえるのは重臣クラス。しかもそのトップの方で、ナンバーツーとかナンバースリー、すなわち補佐役ということになる。つまり、諫言がいえる補佐役がいるかいないかが、戦国大名家の存亡に大きく関係していたといってよい。
そこで思いおこされるのが豊臣秀吉である。秀吉には、二人の軍師、「二兵衛」などといわれる黒田官兵衛孝高(よしたか)(如水)と竹中半兵衛重治がいた。竹中半兵衛の方は、早くに死んでしまい、また、伝説的な話が多いが、黒田官兵衛は文句なく秀吉の補佐役であった。
そしてもう一人、秀吉には補佐役がいた。弟の秀長である。やや極端ないい方をすれば、秀吉はこの黒田官兵衛と弟秀長という二人の補佐役がいたおかげで天下を取れたといってもいいくらいであった。
秀吉はこの二人だけでなく、妻のおねの意見にも耳を傾けていたことが知られている。秀吉がはじめて長浜城の城主になったとき、早く城下町を作りたいと考え、「長浜城下で商売をする者には税を取らない」とお触れを出した。その効果は抜群で、またたく間に城下町ができた。すると、秀吉は、「これから税を取る」と方向転換しそうになったのである。
それを知った妻おねが横槍を入れた。「それでは商人たちをだましたことになりませんか」という。まさに正論で、秀吉もそれ以上のゴリ押しはしなかったのである。
秀吉が黒田官兵衛や秀長、さらに妻おねの諫言を受けいれている間はよかった。ところが天下を取ったあたりから、秀吉は聞く耳をもたなくなったのである。一つは、黒田官兵衛が遠ざけられたこともあるが、もう一つ、決定的だったのは、弟秀長の死である。
秀長は天正19年(1591年)1月22日に亡くなった。病死である。そのとたん、秀吉の暴走がはじまる。私は、秀吉晩年の不祥事とか暗黒事件といっているが、それまでの秀吉では考えられないことが次からつぎへおこるのである。
まず、秀長の死の直後、茶頭(さとう)でもあり、腹心でもあった千利休を切腹させている。そして、無謀な朝鮮出兵をはじめ、さらに、一度は養子に迎え、関白まで譲った甥の秀次を高野山に追って切腹させ、その正室、側室、子供、侍女まで全部で39人、京都の三条河原に引きだし、虐殺といってよい殺し方をしているのである。
これは、単に秀吉が老人になって耄碌(もうろく)したというレベルの問題ではない。ブレーキ役でもあった助手席に座っていた弟秀長の死で、運転手秀吉の暴走がはじまったのである。補佐役の重要性を極端に示す事例ではないかと思われる。
甲斐の戦国大名武田信玄の一代記といってよい『甲陽軍鑑』という本がある。信玄の重臣の一人だった高坂弾正(こうさかだんじょう)昌信が、信玄死後、そのほとんどを書き、そのあと、昌信の甥 春日惣次郎らが書きつぎ、それを江戸時代のはじめ、軍学者の小幡勘兵衛景憲(かげのり)がまとめたといわれる本である。
もっとも、この『甲陽軍鑑』は、40年ほど前までは偽書扱いをされていた。というのは、その頃までは架空の軍師だった山本勘助のことが、かなり書き込まれていたからであった。
ところが、その後、山本勘助が、たしかな文書の出現によって実在が証明され、偽書というレッテルを貼られていた『甲陽軍鑑』の見直しが進められた結果、今日では、「史実と合致しない部分もあるが、使える部分も多い」といったとらえ方となっている。
その『甲陽軍鑑』に、日常、信玄がしゃべっていた言葉が随所に筆録されており、よく知られるものとして、七分勝ちといったものがある。これは、「ゆミやの儀、勝負の事、十分を六分七分のかちハ、十分のかちなり」というもので、合戦では、六部か七部くらいの勝ち方が理想的だといったくだりである。その理由について、信玄は、「八分のかちハあやうし、九分十分のかちはみたま大まけの下つくり也」といっている。
完勝してしまうと、奢り(おごり)の気持ちや、油断が生じ、つぎの戦いで負けてしまうので、七分くらいの勝ちを理想的な勝ち方と考えていたことがわかる。
私が『甲陽軍鑑』に採録されている信玄のいくつかの名言の中で、一番注目しているのは次の言葉である。原文は、
国持つ大将、人をつかふに、ひとむきの侍をすき候て、其そうきやうする者共、おなじぎやう儀さはうの人計、念比(ねんごろ)してめしつかふ事、信玄は大きにきらふたり。
とある。漢字交じりで現代風に書けば、「国持大将、人を使うに、一向きの侍を好き候て、その崇敬する者共、同じ行儀・作法の人ばかり、念比して召し使う事、信玄は大いに嫌いたり」となる。
「一向きの侍」とは、自分と同じ方向を向いている家臣のことで、自分のことを崇敬し、しかも同じような行儀・作法をする者を自分のまわりに置きたくないという意味である。いま風ないい方をすれば、「イエスマンばかりでまわりを固めたくない」といったところであろうか。
上に立つと、下からあまり苦言をいわれたくないと考えがちで、どうしても、反対意見をいう者を遠ざけてしまいがちである。信玄は、寵臣(ちょうしん)に取りかこまれた大名が没落していったことをよく知っていたのであろう。諫言(かんげん)がいえる、すなわち、自分を諌(いさ)めてくれる家臣を側に置くよう心がけていたのである。
|補佐役の重要性を物語る晩年の秀吉
諫言がいえる家臣となると、どうしてもある程度限られてくる。下っ端の家臣では、立場上、諫言などできない。いえるのは重臣クラス。しかもそのトップの方で、ナンバーツーとかナンバースリー、すなわち補佐役ということになる。つまり、諫言がいえる補佐役がいるかいないかが、戦国大名家の存亡に大きく関係していたといってよい。
そこで思いおこされるのが豊臣秀吉である。秀吉には、二人の軍師、「二兵衛」などといわれる黒田官兵衛孝高(よしたか)(如水)と竹中半兵衛重治がいた。竹中半兵衛の方は、早くに死んでしまい、また、伝説的な話が多いが、黒田官兵衛は文句なく秀吉の補佐役であった。
そしてもう一人、秀吉には補佐役がいた。弟の秀長である。やや極端ないい方をすれば、秀吉はこの黒田官兵衛と弟秀長という二人の補佐役がいたおかげで天下を取れたといってもいいくらいであった。
秀吉はこの二人だけでなく、妻のおねの意見にも耳を傾けていたことが知られている。秀吉がはじめて長浜城の城主になったとき、早く城下町を作りたいと考え、「長浜城下で商売をする者には税を取らない」とお触れを出した。その効果は抜群で、またたく間に城下町ができた。すると、秀吉は、「これから税を取る」と方向転換しそうになったのである。
それを知った妻おねが横槍を入れた。「それでは商人たちをだましたことになりませんか」という。まさに正論で、秀吉もそれ以上のゴリ押しはしなかったのである。
秀吉が黒田官兵衛や秀長、さらに妻おねの諫言を受けいれている間はよかった。ところが天下を取ったあたりから、秀吉は聞く耳をもたなくなったのである。一つは、黒田官兵衛が遠ざけられたこともあるが、もう一つ、決定的だったのは、弟秀長の死である。
秀長は天正19年(1591年)1月22日に亡くなった。病死である。そのとたん、秀吉の暴走がはじまる。私は、秀吉晩年の不祥事とか暗黒事件といっているが、それまでの秀吉では考えられないことが次からつぎへおこるのである。
まず、秀長の死の直後、茶頭(さとう)でもあり、腹心でもあった千利休を切腹させている。そして、無謀な朝鮮出兵をはじめ、さらに、一度は養子に迎え、関白まで譲った甥の秀次を高野山に追って切腹させ、その正室、側室、子供、侍女まで全部で39人、京都の三条河原に引きだし、虐殺といってよい殺し方をしているのである。
これは、単に秀吉が老人になって耄碌(もうろく)したというレベルの問題ではない。ブレーキ役でもあった助手席に座っていた弟秀長の死で、運転手秀吉の暴走がはじまったのである。補佐役の重要性を極端に示す事例ではないかと思われる。
Posted by 日刊いーしず at 12:00