2013年09月04日
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
話術で出世した豊臣秀吉
木下藤吉郎といっていたのちの秀吉が、織田信長に仕えるようになったのは、前田利家とほぼ同時だった。スタートラインは同じで、利家は信長親衛隊である母衣(ほろ)衆の1人で、秀吉は小者(こもの)なので、身分的には利家の方が上だった。
ところが、数年して、秀吉の方が早く出世していくのである。これは、信長流人事だったからありえたことで、信長以外の武将だったら考えられないことであった。というのは、利家はニックネームの「槍の又左(やりのまたざ)」からもうかがわれるように、槍働きにたけていたのに対し、背は低く、体も華奢(きゃしゃ)な秀吉はあまり武闘は得意ではなかったからである。そのころの論功行賞の基準は、武功、すなわち、戦いでの手柄がすべてであった。
秀吉にとって幸いしたのは、信長がそうした武功以外にも論功行賞の評価のものさしをもっていた点である。よく知られているように、秀吉が信長に仕えたばかりのころの役職というか立場は小者であった。城内の雑用係である。その仕事の1つが有名な草履(ぞうり)取りだった。信長から「出かけるぞ」と声がかかれば、「はっ」といって草履を揃える役である。
では、そのような小者である秀吉が信長の目にとまり、利家より早く出世していくことになったのはなぜだったのだろうか。この点について書かれたものはないが、私は信長が秀吉の話術の才を見いだしたのではないかと考えている。
草履取りは、そのまま馬の轡(くつわ)取りもやる。信長も家臣と一緒に外に出るときは家臣と会話することになるが、1人だけで出るときには、馬の轡を取っている秀吉に話しかけることもあったと思われる。その際、秀吉の反応のよさ、話し上手に気がついたのではなかろうか。秀吉は、信長に仕える前、職人・商人などいくつかの職を経験しており、話題も豊富だったらしい。よく、秀吉のことを「人たらしの天才」などというが、信長は、秀吉の特技ともいうべきこの話術を使うことを考え、それを実行に移しているのである。
ちょうど、信長が美濃の斎藤龍興と戦っているとき、前田利家たち槍働き隊を使って木曾川を越えて攻め入らせているが、なかなか埒(らち)があかなかった。そこで、信長は秀吉の話術の才を使っている。秀吉に「秘かに木曾川を渡り、斎藤家の家臣の切り崩しをせよ」との命令である。
秀吉の寝返り工作を受け、何人かが内応を約束してきた。それを受け、信長は、永禄10年(1567)8月15日、利家たちの槍働き隊に命じて美濃に攻めこませている。すると、その動きに呼応し、秀吉に内応していた何人かの斎藤家の家臣が信長に内通し、謀反をおこしたので、あの難攻不落といわれた稲葉山城はたった1日で落ちているのである。これで、秀吉は利家より早く出世している。利家の武功よりも、秀吉の話術、すなわちプレゼンテーション力を上とみたことになる。
黒田如水(じょすい)の説得力
このあと、秀吉は、信長が近江の浅井長政と戦った時、同じように、浅井家臣の切り崩し工作を行い、天正元年(1573)、浅井家を滅ぼしたあと、その遺領をもらい、城を小谷城から長浜城に移し、12万石の大名となっている。
そして、その秀吉が天正5年(1577)から「中国方面軍司令官」として播磨に乗りこんでいったとき、姫路城主の黒田官兵衛孝高(よしたか)、すなわち如水が味方となり、この如水の働きによって播磨の平定に成功する。如水も、秀吉と同じく話術の才にたけていたのである。
このあと、信長死後における秀吉の天下統一の過程で、如水の説得力にますます磨きがかかるわけで、秀吉流「戦わずに勝つ戦法」を実践していくことになる。具体的によくわかるのが天正15年(1587)の九州攻めと、同18年(1590)の小田原攻めなので、その2つについて詳しくみていくことにしたい。
九州攻めは、秀吉自らが20万を超す大群で九州に攻め入るのは天正15年であるが、すでに前の年、14年7月10日に島津氏討伐を決定し、いわば秀吉本隊の露払いとして、如水は九州に渡り、先鋒となって進軍した毛利・芳川・小早川軍とともに北九州の島津軍と戦闘状態に入っている。
そして、注目されるのは、このとき、如水が島津方になびいていた北九州の武将たちに、「味方をすれば本領安堵」という餌をちらつかせながら勧降工作を行い、ほとんどの武将に内応の約束をさせていた点である。翌年、秀吉本隊が九州にわたるとともに、如水に内応を約束してきていた武将は戦わずに秀吉陣営に加わっており、島津義久を降服に追いこむことに成功しているのである。
如水自身はその後、同17年(1589)に家督を子長政に譲っていたが、翌18年の小田原攻めには、秀吉に乞(こ)われて従軍している。秀吉も、如水のプレゼンテーション力に期待していたからである。
小田原攻めのとき、秀吉は21万とも22万ともいわれる大軍で北条氏政・氏直父子の小田原城を包囲した。北条方では惣構(そうがまえ)といわれる城と町を包んだ大外郭でこれに対抗し、秀吉としても力攻めで落とすのは難しいと考え、如水をよんで、説得工作を行わせている。
如水はあらかじめ、酒と肴(さかな)を小田原城内に贈っておいて、自らは6月24日、無刀・肩衣(かたぎぬ)袴の姿で小田原城内に乗りこみ、氏直に対し開城を説得している。その結果、籠城3ヵ月の7月5日、氏直から降服を申し出てきた。この如水の説得力によって、城内5万6,000の兵の命が救われたことになる。
木下藤吉郎といっていたのちの秀吉が、織田信長に仕えるようになったのは、前田利家とほぼ同時だった。スタートラインは同じで、利家は信長親衛隊である母衣(ほろ)衆の1人で、秀吉は小者(こもの)なので、身分的には利家の方が上だった。
ところが、数年して、秀吉の方が早く出世していくのである。これは、信長流人事だったからありえたことで、信長以外の武将だったら考えられないことであった。というのは、利家はニックネームの「槍の又左(やりのまたざ)」からもうかがわれるように、槍働きにたけていたのに対し、背は低く、体も華奢(きゃしゃ)な秀吉はあまり武闘は得意ではなかったからである。そのころの論功行賞の基準は、武功、すなわち、戦いでの手柄がすべてであった。
秀吉にとって幸いしたのは、信長がそうした武功以外にも論功行賞の評価のものさしをもっていた点である。よく知られているように、秀吉が信長に仕えたばかりのころの役職というか立場は小者であった。城内の雑用係である。その仕事の1つが有名な草履(ぞうり)取りだった。信長から「出かけるぞ」と声がかかれば、「はっ」といって草履を揃える役である。
では、そのような小者である秀吉が信長の目にとまり、利家より早く出世していくことになったのはなぜだったのだろうか。この点について書かれたものはないが、私は信長が秀吉の話術の才を見いだしたのではないかと考えている。
草履取りは、そのまま馬の轡(くつわ)取りもやる。信長も家臣と一緒に外に出るときは家臣と会話することになるが、1人だけで出るときには、馬の轡を取っている秀吉に話しかけることもあったと思われる。その際、秀吉の反応のよさ、話し上手に気がついたのではなかろうか。秀吉は、信長に仕える前、職人・商人などいくつかの職を経験しており、話題も豊富だったらしい。よく、秀吉のことを「人たらしの天才」などというが、信長は、秀吉の特技ともいうべきこの話術を使うことを考え、それを実行に移しているのである。
ちょうど、信長が美濃の斎藤龍興と戦っているとき、前田利家たち槍働き隊を使って木曾川を越えて攻め入らせているが、なかなか埒(らち)があかなかった。そこで、信長は秀吉の話術の才を使っている。秀吉に「秘かに木曾川を渡り、斎藤家の家臣の切り崩しをせよ」との命令である。
秀吉の寝返り工作を受け、何人かが内応を約束してきた。それを受け、信長は、永禄10年(1567)8月15日、利家たちの槍働き隊に命じて美濃に攻めこませている。すると、その動きに呼応し、秀吉に内応していた何人かの斎藤家の家臣が信長に内通し、謀反をおこしたので、あの難攻不落といわれた稲葉山城はたった1日で落ちているのである。これで、秀吉は利家より早く出世している。利家の武功よりも、秀吉の話術、すなわちプレゼンテーション力を上とみたことになる。
黒田如水(じょすい)の説得力
このあと、秀吉は、信長が近江の浅井長政と戦った時、同じように、浅井家臣の切り崩し工作を行い、天正元年(1573)、浅井家を滅ぼしたあと、その遺領をもらい、城を小谷城から長浜城に移し、12万石の大名となっている。
そして、その秀吉が天正5年(1577)から「中国方面軍司令官」として播磨に乗りこんでいったとき、姫路城主の黒田官兵衛孝高(よしたか)、すなわち如水が味方となり、この如水の働きによって播磨の平定に成功する。如水も、秀吉と同じく話術の才にたけていたのである。
このあと、信長死後における秀吉の天下統一の過程で、如水の説得力にますます磨きがかかるわけで、秀吉流「戦わずに勝つ戦法」を実践していくことになる。具体的によくわかるのが天正15年(1587)の九州攻めと、同18年(1590)の小田原攻めなので、その2つについて詳しくみていくことにしたい。
九州攻めは、秀吉自らが20万を超す大群で九州に攻め入るのは天正15年であるが、すでに前の年、14年7月10日に島津氏討伐を決定し、いわば秀吉本隊の露払いとして、如水は九州に渡り、先鋒となって進軍した毛利・芳川・小早川軍とともに北九州の島津軍と戦闘状態に入っている。
そして、注目されるのは、このとき、如水が島津方になびいていた北九州の武将たちに、「味方をすれば本領安堵」という餌をちらつかせながら勧降工作を行い、ほとんどの武将に内応の約束をさせていた点である。翌年、秀吉本隊が九州にわたるとともに、如水に内応を約束してきていた武将は戦わずに秀吉陣営に加わっており、島津義久を降服に追いこむことに成功しているのである。
如水自身はその後、同17年(1589)に家督を子長政に譲っていたが、翌18年の小田原攻めには、秀吉に乞(こ)われて従軍している。秀吉も、如水のプレゼンテーション力に期待していたからである。
小田原攻めのとき、秀吉は21万とも22万ともいわれる大軍で北条氏政・氏直父子の小田原城を包囲した。北条方では惣構(そうがまえ)といわれる城と町を包んだ大外郭でこれに対抗し、秀吉としても力攻めで落とすのは難しいと考え、如水をよんで、説得工作を行わせている。
如水はあらかじめ、酒と肴(さかな)を小田原城内に贈っておいて、自らは6月24日、無刀・肩衣(かたぎぬ)袴の姿で小田原城内に乗りこみ、氏直に対し開城を説得している。その結果、籠城3ヵ月の7月5日、氏直から降服を申し出てきた。この如水の説得力によって、城内5万6,000の兵の命が救われたことになる。
第8回 戦国武将たちの先見性と決断力
第7回 武将に学ぶ、「人脈作り」のコツ
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
第4回 織田信長と黒田官兵衛の情報収集力
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
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第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
Posted by 日刊いーしず at 12:00