2013年03月22日
第1回 発想力 ~織田信長と豊臣秀吉の場合~
|軍艦に鎧を着せた信長
織田信長が石山本願寺の顕如と戦った時、織田軍は本願寺の北・東・南の三方を包囲したが、西だけは大阪湾があいていた。そこをねらって、本願寺と手を結んでいた毛利輝元が、瀬戸内水軍を使って兵糧を搬入していたのである。
信長も、伊勢・志摩の水軍でそれを防ごうとしたわけであるが、水軍の力は、瀬戸内水軍の方がはるかに上で、信長側はいつも負けていた。負けるパターンは決まっていて、瀬戸内水軍が火矢を射込み、また、焙烙(ほうろく)といって、陶磁器の器に油のしみこんだ布を詰め、それに火をつけて投げ込んでくるため、船に火がつき、燃えて沈没する形だった。
そうした状況が何度か続いたところで、信長も我慢の限界に達したのだろう。「燃えない船を造れ」と、伊勢・志摩水軍の大将だった九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じている。しかし、「燃えない船を造れ」といわれても、命じられた九鬼嘉隆は困惑したと思われる。それでも、伊勢大湊で造船を開始している。
このとき、信長自身のアイデアなのか、命じられた九鬼嘉隆のアイデアだったのか書かれたものがないのでわからないが、木造の船体に薄い鉄板を張った船ができあがった。鉄張り軍艦である。
当時、武士が身につける甲冑(かっちゅう)はあったし、主要部分は薄い鉄板でできている。また、大将クラスの馬にも馬鎧(うまよろい)といって、鎖のようなものをつけるということがあった。おそらく、発想としては「船にも鎧を着せたらどうだろうか」といったところではないかと思われるが、このアイデアは秀逸だった。とにかく、造船先進国のポルトガル・イスパニア・イギリス・オランダでも鉄張り軍艦はまだなかったのである。
鉄張り軍艦7隻が天正6年(1578)6月に完成すると、信長は待っていたかのようにその船を大阪湾に廻させ、ついに、7月16日、木津川河口で瀬戸内水軍と戦い、これを破り、本願寺への兵糧遮断に成功するのである。『多聞院日記』によると、新造艦は、横7間(約12.6m)、縦12~13間(22m)で、「鉄ノ船也」と書かれている。
信長のすごいところは、この鉄張り軍艦の例からも明らかなように、問題点は何かをつきとめ、その解決方法を考えている点である。そこには、常識にとらわれない発想力の豊かさというものがあったわけで、信長の後継者である豊臣秀吉もそれを受けついでいた。そこで、次に、秀吉の発想力の豊かさを示す事例を紹介しておきたい。
|秀吉のダイレクトメール作戦
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれたとき、秀吉は備中高松城の水攻めの最中だった。信長の死を知った秀吉は、信長の死を隠したまま毛利輝元側との講和交渉をまとめ、いわゆる「中国大返し」で兵を畿内にもどし、6月13日、山崎の戦いで明智光秀を倒すことに成功する。
注目されるのは、このあと、秀吉は右筆(ゆうひつ)に命じ、山崎の戦いの顛末(てんまつ)を本に書かせているのである。これが『惟任(これとう)退治記』である。惟任というのは、光秀が信長からもらった九州の名族の姓であった。
そこには、具体的な戦闘経過だけではなく、なぜ、自分が光秀と戦うことになったのかなど、自己の正当性を広く訴える内容も含まれていた。詳しい状況や事情を知らない信長生前の元同僚や京都の公家たちに、「信長の敵(かたき)討ちをしたのはこの秀吉だ」ということを印象づけるねらいがあった。つまり、明らかに自己宣伝の本であった。
秀吉が明智光秀を討ったといっても、その時点では、信長家臣団の中でのランクは上にまだ柴田勝家や丹波長秀がいる形だった。秀吉にとって、光秀を破った功績をアピールする必要があったのである。
6月27日に清洲城で開かれた清洲会議で、信長の嫡男信忠の遺児である三法師の擁立に成功した秀吉は、いよいよ宿老筆頭格の柴田勝家との対立を迎える。これが、翌11年(1583)4月21日に近江の北、琵琶湖と余呉湖にはさまれた地域でくりひろげられた賤ヶ岳の戦いである。
この戦いは、福島正則・加藤清正ら「賤ヶ岳七本槍」の活躍で知られているが、勝敗を決めたのは、前田利家の戦線離脱であった。柴田軍の一員として布陣していた利家の撤退によって、柴田軍総退却という形で終わっている。
そのあと、逃げる勝家を追って居城越前北庄城攻めとなるわけであるが、城を落とすと、先の山崎の戦いのときと同じように、秀吉は一連の戦いの顛末を1冊の本にまとめさせている。それが、『柴田合戦記』である。『柴田退治記』という書名になっているものもある。勝家と再婚したお市の方と勝家が自害していくシーンも詳しく書かれているが、それは、勝家が、自分たちの死に際を1人の老女に見させ、秀吉に伝えるよう命じていたからであった。
そして注目されるのは、この賤ヶ岳の戦いのあと、秀吉はもっと大々的な広報活動を展開していたのである。何と、秀吉は、それまで一度も手紙のやりとりをしたことのない遠くの大名に、一方的に戦勝報告を送りつけていたのである。私はこれを「秀吉のダイレクトメール作戦」と名付けている。
これを受け取った遠方の大名の多くは、1年前まで信長の一家臣にすぎなかった秀吉が信長の後継者に名乗りを上げたことにびっくりし、文字通り、戦わずに兜を脱いでしまった。戦わずに勝つという、秀吉にとって最も理想的な展開となっていったのである。
織田信長が石山本願寺の顕如と戦った時、織田軍は本願寺の北・東・南の三方を包囲したが、西だけは大阪湾があいていた。そこをねらって、本願寺と手を結んでいた毛利輝元が、瀬戸内水軍を使って兵糧を搬入していたのである。
信長も、伊勢・志摩の水軍でそれを防ごうとしたわけであるが、水軍の力は、瀬戸内水軍の方がはるかに上で、信長側はいつも負けていた。負けるパターンは決まっていて、瀬戸内水軍が火矢を射込み、また、焙烙(ほうろく)といって、陶磁器の器に油のしみこんだ布を詰め、それに火をつけて投げ込んでくるため、船に火がつき、燃えて沈没する形だった。
そうした状況が何度か続いたところで、信長も我慢の限界に達したのだろう。「燃えない船を造れ」と、伊勢・志摩水軍の大将だった九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じている。しかし、「燃えない船を造れ」といわれても、命じられた九鬼嘉隆は困惑したと思われる。それでも、伊勢大湊で造船を開始している。
このとき、信長自身のアイデアなのか、命じられた九鬼嘉隆のアイデアだったのか書かれたものがないのでわからないが、木造の船体に薄い鉄板を張った船ができあがった。鉄張り軍艦である。
当時、武士が身につける甲冑(かっちゅう)はあったし、主要部分は薄い鉄板でできている。また、大将クラスの馬にも馬鎧(うまよろい)といって、鎖のようなものをつけるということがあった。おそらく、発想としては「船にも鎧を着せたらどうだろうか」といったところではないかと思われるが、このアイデアは秀逸だった。とにかく、造船先進国のポルトガル・イスパニア・イギリス・オランダでも鉄張り軍艦はまだなかったのである。
鉄張り軍艦7隻が天正6年(1578)6月に完成すると、信長は待っていたかのようにその船を大阪湾に廻させ、ついに、7月16日、木津川河口で瀬戸内水軍と戦い、これを破り、本願寺への兵糧遮断に成功するのである。『多聞院日記』によると、新造艦は、横7間(約12.6m)、縦12~13間(22m)で、「鉄ノ船也」と書かれている。
信長のすごいところは、この鉄張り軍艦の例からも明らかなように、問題点は何かをつきとめ、その解決方法を考えている点である。そこには、常識にとらわれない発想力の豊かさというものがあったわけで、信長の後継者である豊臣秀吉もそれを受けついでいた。そこで、次に、秀吉の発想力の豊かさを示す事例を紹介しておきたい。
|秀吉のダイレクトメール作戦
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれたとき、秀吉は備中高松城の水攻めの最中だった。信長の死を知った秀吉は、信長の死を隠したまま毛利輝元側との講和交渉をまとめ、いわゆる「中国大返し」で兵を畿内にもどし、6月13日、山崎の戦いで明智光秀を倒すことに成功する。
注目されるのは、このあと、秀吉は右筆(ゆうひつ)に命じ、山崎の戦いの顛末(てんまつ)を本に書かせているのである。これが『惟任(これとう)退治記』である。惟任というのは、光秀が信長からもらった九州の名族の姓であった。
そこには、具体的な戦闘経過だけではなく、なぜ、自分が光秀と戦うことになったのかなど、自己の正当性を広く訴える内容も含まれていた。詳しい状況や事情を知らない信長生前の元同僚や京都の公家たちに、「信長の敵(かたき)討ちをしたのはこの秀吉だ」ということを印象づけるねらいがあった。つまり、明らかに自己宣伝の本であった。
秀吉が明智光秀を討ったといっても、その時点では、信長家臣団の中でのランクは上にまだ柴田勝家や丹波長秀がいる形だった。秀吉にとって、光秀を破った功績をアピールする必要があったのである。
6月27日に清洲城で開かれた清洲会議で、信長の嫡男信忠の遺児である三法師の擁立に成功した秀吉は、いよいよ宿老筆頭格の柴田勝家との対立を迎える。これが、翌11年(1583)4月21日に近江の北、琵琶湖と余呉湖にはさまれた地域でくりひろげられた賤ヶ岳の戦いである。
この戦いは、福島正則・加藤清正ら「賤ヶ岳七本槍」の活躍で知られているが、勝敗を決めたのは、前田利家の戦線離脱であった。柴田軍の一員として布陣していた利家の撤退によって、柴田軍総退却という形で終わっている。
そのあと、逃げる勝家を追って居城越前北庄城攻めとなるわけであるが、城を落とすと、先の山崎の戦いのときと同じように、秀吉は一連の戦いの顛末を1冊の本にまとめさせている。それが、『柴田合戦記』である。『柴田退治記』という書名になっているものもある。勝家と再婚したお市の方と勝家が自害していくシーンも詳しく書かれているが、それは、勝家が、自分たちの死に際を1人の老女に見させ、秀吉に伝えるよう命じていたからであった。
そして注目されるのは、この賤ヶ岳の戦いのあと、秀吉はもっと大々的な広報活動を展開していたのである。何と、秀吉は、それまで一度も手紙のやりとりをしたことのない遠くの大名に、一方的に戦勝報告を送りつけていたのである。私はこれを「秀吉のダイレクトメール作戦」と名付けている。
これを受け取った遠方の大名の多くは、1年前まで信長の一家臣にすぎなかった秀吉が信長の後継者に名乗りを上げたことにびっくりし、文字通り、戦わずに兜を脱いでしまった。戦わずに勝つという、秀吉にとって最も理想的な展開となっていったのである。
Posted by 日刊いーしず at 12:00