2013年10月25日
第8回 戦国武将たちの先見性と決断力
藤堂高虎の先見性と決断力
藤堂高虎は、生涯に10人主君を変えたということで有名である。そのため、「風見鶏」とか「腰が軽い」などと悪くいわれる傾向があるが、これは江戸時代の儒教的武士道徳が定着してからの評価で、戦国時代にはまだ「武士は二君にまみえず」といった観念はない。
若いころ、何人も主君を変えたのは、主君が戦いに負けて没落したり、主君が死んでしまい浪人になったりしたといった理由もあったが、豊臣秀吉の死後、急速に徳川家康に接近していったのは、高虎の先見性と決断力によるものであった。外様大名でありながら、家康から譜代大名並の扱いをうけた背景に、この高虎の先見性と決断力があったのである。
おそらく高虎も、他の豊臣恩顧の大名たちと同様、朝鮮出兵や秀次事件によって次第に秀吉離れの思いを抱きはじめたのであろう。「次期政権担当者は家康」と思うようになっていったと考えられる。秀吉死後も、世間一般は子の秀頼が後継者とみていたわけで、この違いは大きなものがあった。
従来、大名が江戸に人質を出した第1号は、前田利長が母の芳春院(ほうしゅんいん。前田利家の妻まつ)を差し出したときとされている。これは、浅野長政・大野治長・土方雄久(ひじかたかつひさ)が家康暗殺未遂事件をおこし、利長も疑われたことがあり、その嫌疑を晴らすため、母を人質に出したもので、これが慶長5年(1600)5月のことであった。
ところが、実はそれよりも前、慶長4年の時点で、高虎が弟の正高を人質として江戸に出していたことが明らかとなっている。これが、大名から徳川家への人質提出第1号ということになるのではなかろうか。
では、関ヶ原の戦いがおこるかどうかもわからず、ましてや、家康が天下を取るかどうかもまったく見えていない段階で、高虎が江戸に人質を出したのはどうしてなのだろうか。高虎の場合、福島正則や加藤清正のように、三成と特別仲が悪かったというわけではない。しかし、いずれ、三成と家康が対立するであろうことを予知していた可能性はある。その際、家康が勝つとみて、早くから、「私は家康様のために働く覚悟です」と家康にアピールしたものと思われる。この決断によって最終的には伊勢津城主32万3,950石という石高を与えられるのである。
小山評定の福島正則と山内一豊
武将の決断力が決定的な意味をもったという例は多いが、私がもう1つ注目しているのは小山(おやま)評定のシーンである。
周知のように、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、家康による会津攻め、すなわち上杉景勝討伐によってはじまった。家康が福島正則・細川忠興・黒田長政ら豊臣恩顧の大名たちを引きつれ、畿内・近国を留守にして会津に向かった。これは、自らが畿内・近国を留守にすることで、三成の挙兵を誘う、いわゆる「呼び水」であった。
家康らが7月24日、下野(しもつけ)の小山(栃木県小山市)に到着したところで、三成挙兵の報が入り、翌25日、家康は諸将を集めて軍議を開いている。有名な小山評定である。
家康は、自分のところに入った情報を披露し、「去就は自由である」と投げかけている。この段階では東軍とか西軍といういい方はないが、要は「東軍にとどまるもよし、西軍三成方に加わるもよし」と、大名たちの判断にゆだねる形であった。
大名たちが何というべきか考え、言葉を選んでいたとき、まっさきに口を開いたのが福島正則である。正則は子どもの頃から秀吉・おね夫妻に育てられたいわゆる「子飼いの武将」であったが、三成とは犬猿の仲で、「秀頼様のためにならない三成を除くため、家康殿と一緒に戦いたい」と発言している。会津攻めを中断し、まず三成との戦いをすべきだというのである。
この正則の発言で小山評定の流れは決まった。この後、「三成討つべし」の大合唱となったが、もう1人、重大発言をした武将がいた。山内(やまうち)一豊である。
一豊の居城は遠江の掛川城でったが、一豊は、その軍議の席上、「掛川城にはたくさんの兵糧があります。それを城ごと献上致しますので、家康様、どうぞご自由にお使いください」と発言して家康を感激させている。このあと、他の大名たちも、「我も」「我も」という状態で、軍議の流れは完全に「打倒三成」の方向になったといわれている。
一豊は、実際の関ヶ原の戦いの場面では南宮山の毛利・吉川軍の押さえとなっていたので、まったく戦功をあげる機会はなかった。そのためこれといった手柄をたてたわけでもなかったにもかかわらず、戦後、それまでの5万9,000石から土佐高知20万石へ栄転したのは、この一言によってであったと思われる。
実は、このことに関して、新井白石の著わした「藩翰譜(はんかんふ)」におもしろいエピソードが載っている。城を兵糧ごと献上するというアイデアは、浜松城主堀尾吉晴の子、忠氏が考えていたものだというのである。
小山評定に向かう道すがら、一豊が忠氏に、「三成と戦うことになったら、どう身を処したらよいだろうか」と話を向けると、「われは、我が城に兵糧をつけて内府様へ参らせ、人質をば吉田の城に入れて、自らは先陣して軍(いくさ)せんと思う」といったという。内府様というのは家康のことで、一豊が家康の前で発言したことと全く同じである。つまり、アイデアの盗用といわれてもしかたのない状況であった。
しかし、このアイデア盗用が問題となることはなかった。よい考えをもっていても、それを発言できる勇気が堀尾忠氏にはなかったのである。他人のアイデアながらまっさきに発言した一豊の決断が評価されたといえる。
藤堂高虎は、生涯に10人主君を変えたということで有名である。そのため、「風見鶏」とか「腰が軽い」などと悪くいわれる傾向があるが、これは江戸時代の儒教的武士道徳が定着してからの評価で、戦国時代にはまだ「武士は二君にまみえず」といった観念はない。
若いころ、何人も主君を変えたのは、主君が戦いに負けて没落したり、主君が死んでしまい浪人になったりしたといった理由もあったが、豊臣秀吉の死後、急速に徳川家康に接近していったのは、高虎の先見性と決断力によるものであった。外様大名でありながら、家康から譜代大名並の扱いをうけた背景に、この高虎の先見性と決断力があったのである。
おそらく高虎も、他の豊臣恩顧の大名たちと同様、朝鮮出兵や秀次事件によって次第に秀吉離れの思いを抱きはじめたのであろう。「次期政権担当者は家康」と思うようになっていったと考えられる。秀吉死後も、世間一般は子の秀頼が後継者とみていたわけで、この違いは大きなものがあった。
従来、大名が江戸に人質を出した第1号は、前田利長が母の芳春院(ほうしゅんいん。前田利家の妻まつ)を差し出したときとされている。これは、浅野長政・大野治長・土方雄久(ひじかたかつひさ)が家康暗殺未遂事件をおこし、利長も疑われたことがあり、その嫌疑を晴らすため、母を人質に出したもので、これが慶長5年(1600)5月のことであった。
ところが、実はそれよりも前、慶長4年の時点で、高虎が弟の正高を人質として江戸に出していたことが明らかとなっている。これが、大名から徳川家への人質提出第1号ということになるのではなかろうか。
では、関ヶ原の戦いがおこるかどうかもわからず、ましてや、家康が天下を取るかどうかもまったく見えていない段階で、高虎が江戸に人質を出したのはどうしてなのだろうか。高虎の場合、福島正則や加藤清正のように、三成と特別仲が悪かったというわけではない。しかし、いずれ、三成と家康が対立するであろうことを予知していた可能性はある。その際、家康が勝つとみて、早くから、「私は家康様のために働く覚悟です」と家康にアピールしたものと思われる。この決断によって最終的には伊勢津城主32万3,950石という石高を与えられるのである。
小山評定の福島正則と山内一豊
武将の決断力が決定的な意味をもったという例は多いが、私がもう1つ注目しているのは小山(おやま)評定のシーンである。
周知のように、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、家康による会津攻め、すなわち上杉景勝討伐によってはじまった。家康が福島正則・細川忠興・黒田長政ら豊臣恩顧の大名たちを引きつれ、畿内・近国を留守にして会津に向かった。これは、自らが畿内・近国を留守にすることで、三成の挙兵を誘う、いわゆる「呼び水」であった。
家康らが7月24日、下野(しもつけ)の小山(栃木県小山市)に到着したところで、三成挙兵の報が入り、翌25日、家康は諸将を集めて軍議を開いている。有名な小山評定である。
家康は、自分のところに入った情報を披露し、「去就は自由である」と投げかけている。この段階では東軍とか西軍といういい方はないが、要は「東軍にとどまるもよし、西軍三成方に加わるもよし」と、大名たちの判断にゆだねる形であった。
大名たちが何というべきか考え、言葉を選んでいたとき、まっさきに口を開いたのが福島正則である。正則は子どもの頃から秀吉・おね夫妻に育てられたいわゆる「子飼いの武将」であったが、三成とは犬猿の仲で、「秀頼様のためにならない三成を除くため、家康殿と一緒に戦いたい」と発言している。会津攻めを中断し、まず三成との戦いをすべきだというのである。
この正則の発言で小山評定の流れは決まった。この後、「三成討つべし」の大合唱となったが、もう1人、重大発言をした武将がいた。山内(やまうち)一豊である。
一豊の居城は遠江の掛川城でったが、一豊は、その軍議の席上、「掛川城にはたくさんの兵糧があります。それを城ごと献上致しますので、家康様、どうぞご自由にお使いください」と発言して家康を感激させている。このあと、他の大名たちも、「我も」「我も」という状態で、軍議の流れは完全に「打倒三成」の方向になったといわれている。
一豊は、実際の関ヶ原の戦いの場面では南宮山の毛利・吉川軍の押さえとなっていたので、まったく戦功をあげる機会はなかった。そのためこれといった手柄をたてたわけでもなかったにもかかわらず、戦後、それまでの5万9,000石から土佐高知20万石へ栄転したのは、この一言によってであったと思われる。
実は、このことに関して、新井白石の著わした「藩翰譜(はんかんふ)」におもしろいエピソードが載っている。城を兵糧ごと献上するというアイデアは、浜松城主堀尾吉晴の子、忠氏が考えていたものだというのである。
小山評定に向かう道すがら、一豊が忠氏に、「三成と戦うことになったら、どう身を処したらよいだろうか」と話を向けると、「われは、我が城に兵糧をつけて内府様へ参らせ、人質をば吉田の城に入れて、自らは先陣して軍(いくさ)せんと思う」といったという。内府様というのは家康のことで、一豊が家康の前で発言したことと全く同じである。つまり、アイデアの盗用といわれてもしかたのない状況であった。
しかし、このアイデア盗用が問題となることはなかった。よい考えをもっていても、それを発言できる勇気が堀尾忠氏にはなかったのである。他人のアイデアながらまっさきに発言した一豊の決断が評価されたといえる。
第7回 武将に学ぶ、「人脈作り」のコツ
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
第4回 織田信長と黒田官兵衛の情報収集力
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
第4回 織田信長と黒田官兵衛の情報収集力
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
Posted by 日刊いーしず at 12:00