2013年10月25日
第8回 戦国武将たちの先見性と決断力
藤堂高虎の先見性と決断力
藤堂高虎は、生涯に10人主君を変えたということで有名である。そのため、「風見鶏」とか「腰が軽い」などと悪くいわれる傾向があるが、これは江戸時代の儒教的武士道徳が定着してからの評価で、戦国時代にはまだ「武士は二君にまみえず」といった観念はない。
若いころ、何人も主君を変えたのは、主君が戦いに負けて没落したり、主君が死んでしまい浪人になったりしたといった理由もあったが、豊臣秀吉の死後、急速に徳川家康に接近していったのは、高虎の先見性と決断力によるものであった。外様大名でありながら、家康から譜代大名並の扱いをうけた背景に、この高虎の先見性と決断力があったのである。
おそらく高虎も、他の豊臣恩顧の大名たちと同様、朝鮮出兵や秀次事件によって次第に秀吉離れの思いを抱きはじめたのであろう。「次期政権担当者は家康」と思うようになっていったと考えられる。秀吉死後も、世間一般は子の秀頼が後継者とみていたわけで、この違いは大きなものがあった。
従来、大名が江戸に人質を出した第1号は、前田利長が母の芳春院(ほうしゅんいん。前田利家の妻まつ)を差し出したときとされている。これは、浅野長政・大野治長・土方雄久(ひじかたかつひさ)が家康暗殺未遂事件をおこし、利長も疑われたことがあり、その嫌疑を晴らすため、母を人質に出したもので、これが慶長5年(1600)5月のことであった。
ところが、実はそれよりも前、慶長4年の時点で、高虎が弟の正高を人質として江戸に出していたことが明らかとなっている。これが、大名から徳川家への人質提出第1号ということになるのではなかろうか。
では、関ヶ原の戦いがおこるかどうかもわからず、ましてや、家康が天下を取るかどうかもまったく見えていない段階で、高虎が江戸に人質を出したのはどうしてなのだろうか。高虎の場合、福島正則や加藤清正のように、三成と特別仲が悪かったというわけではない。しかし、いずれ、三成と家康が対立するであろうことを予知していた可能性はある。その際、家康が勝つとみて、早くから、「私は家康様のために働く覚悟です」と家康にアピールしたものと思われる。この決断によって最終的には伊勢津城主32万3,950石という石高を与えられるのである。
小山評定の福島正則と山内一豊
武将の決断力が決定的な意味をもったという例は多いが、私がもう1つ注目しているのは小山(おやま)評定のシーンである。
周知のように、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、家康による会津攻め、すなわち上杉景勝討伐によってはじまった。家康が福島正則・細川忠興・黒田長政ら豊臣恩顧の大名たちを引きつれ、畿内・近国を留守にして会津に向かった。これは、自らが畿内・近国を留守にすることで、三成の挙兵を誘う、いわゆる「呼び水」であった。
家康らが7月24日、下野(しもつけ)の小山(栃木県小山市)に到着したところで、三成挙兵の報が入り、翌25日、家康は諸将を集めて軍議を開いている。有名な小山評定である。
家康は、自分のところに入った情報を披露し、「去就は自由である」と投げかけている。この段階では東軍とか西軍といういい方はないが、要は「東軍にとどまるもよし、西軍三成方に加わるもよし」と、大名たちの判断にゆだねる形であった。
大名たちが何というべきか考え、言葉を選んでいたとき、まっさきに口を開いたのが福島正則である。正則は子どもの頃から秀吉・おね夫妻に育てられたいわゆる「子飼いの武将」であったが、三成とは犬猿の仲で、「秀頼様のためにならない三成を除くため、家康殿と一緒に戦いたい」と発言している。会津攻めを中断し、まず三成との戦いをすべきだというのである。
この正則の発言で小山評定の流れは決まった。この後、「三成討つべし」の大合唱となったが、もう1人、重大発言をした武将がいた。山内(やまうち)一豊である。
一豊の居城は遠江の掛川城でったが、一豊は、その軍議の席上、「掛川城にはたくさんの兵糧があります。それを城ごと献上致しますので、家康様、どうぞご自由にお使いください」と発言して家康を感激させている。このあと、他の大名たちも、「我も」「我も」という状態で、軍議の流れは完全に「打倒三成」の方向になったといわれている。
一豊は、実際の関ヶ原の戦いの場面では南宮山の毛利・吉川軍の押さえとなっていたので、まったく戦功をあげる機会はなかった。そのためこれといった手柄をたてたわけでもなかったにもかかわらず、戦後、それまでの5万9,000石から土佐高知20万石へ栄転したのは、この一言によってであったと思われる。
実は、このことに関して、新井白石の著わした「藩翰譜(はんかんふ)」におもしろいエピソードが載っている。城を兵糧ごと献上するというアイデアは、浜松城主堀尾吉晴の子、忠氏が考えていたものだというのである。
小山評定に向かう道すがら、一豊が忠氏に、「三成と戦うことになったら、どう身を処したらよいだろうか」と話を向けると、「われは、我が城に兵糧をつけて内府様へ参らせ、人質をば吉田の城に入れて、自らは先陣して軍(いくさ)せんと思う」といったという。内府様というのは家康のことで、一豊が家康の前で発言したことと全く同じである。つまり、アイデアの盗用といわれてもしかたのない状況であった。
しかし、このアイデア盗用が問題となることはなかった。よい考えをもっていても、それを発言できる勇気が堀尾忠氏にはなかったのである。他人のアイデアながらまっさきに発言した一豊の決断が評価されたといえる。
藤堂高虎は、生涯に10人主君を変えたということで有名である。そのため、「風見鶏」とか「腰が軽い」などと悪くいわれる傾向があるが、これは江戸時代の儒教的武士道徳が定着してからの評価で、戦国時代にはまだ「武士は二君にまみえず」といった観念はない。
若いころ、何人も主君を変えたのは、主君が戦いに負けて没落したり、主君が死んでしまい浪人になったりしたといった理由もあったが、豊臣秀吉の死後、急速に徳川家康に接近していったのは、高虎の先見性と決断力によるものであった。外様大名でありながら、家康から譜代大名並の扱いをうけた背景に、この高虎の先見性と決断力があったのである。
おそらく高虎も、他の豊臣恩顧の大名たちと同様、朝鮮出兵や秀次事件によって次第に秀吉離れの思いを抱きはじめたのであろう。「次期政権担当者は家康」と思うようになっていったと考えられる。秀吉死後も、世間一般は子の秀頼が後継者とみていたわけで、この違いは大きなものがあった。
従来、大名が江戸に人質を出した第1号は、前田利長が母の芳春院(ほうしゅんいん。前田利家の妻まつ)を差し出したときとされている。これは、浅野長政・大野治長・土方雄久(ひじかたかつひさ)が家康暗殺未遂事件をおこし、利長も疑われたことがあり、その嫌疑を晴らすため、母を人質に出したもので、これが慶長5年(1600)5月のことであった。
ところが、実はそれよりも前、慶長4年の時点で、高虎が弟の正高を人質として江戸に出していたことが明らかとなっている。これが、大名から徳川家への人質提出第1号ということになるのではなかろうか。
では、関ヶ原の戦いがおこるかどうかもわからず、ましてや、家康が天下を取るかどうかもまったく見えていない段階で、高虎が江戸に人質を出したのはどうしてなのだろうか。高虎の場合、福島正則や加藤清正のように、三成と特別仲が悪かったというわけではない。しかし、いずれ、三成と家康が対立するであろうことを予知していた可能性はある。その際、家康が勝つとみて、早くから、「私は家康様のために働く覚悟です」と家康にアピールしたものと思われる。この決断によって最終的には伊勢津城主32万3,950石という石高を与えられるのである。
小山評定の福島正則と山内一豊
武将の決断力が決定的な意味をもったという例は多いが、私がもう1つ注目しているのは小山(おやま)評定のシーンである。
周知のように、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、家康による会津攻め、すなわち上杉景勝討伐によってはじまった。家康が福島正則・細川忠興・黒田長政ら豊臣恩顧の大名たちを引きつれ、畿内・近国を留守にして会津に向かった。これは、自らが畿内・近国を留守にすることで、三成の挙兵を誘う、いわゆる「呼び水」であった。
家康らが7月24日、下野(しもつけ)の小山(栃木県小山市)に到着したところで、三成挙兵の報が入り、翌25日、家康は諸将を集めて軍議を開いている。有名な小山評定である。
家康は、自分のところに入った情報を披露し、「去就は自由である」と投げかけている。この段階では東軍とか西軍といういい方はないが、要は「東軍にとどまるもよし、西軍三成方に加わるもよし」と、大名たちの判断にゆだねる形であった。
大名たちが何というべきか考え、言葉を選んでいたとき、まっさきに口を開いたのが福島正則である。正則は子どもの頃から秀吉・おね夫妻に育てられたいわゆる「子飼いの武将」であったが、三成とは犬猿の仲で、「秀頼様のためにならない三成を除くため、家康殿と一緒に戦いたい」と発言している。会津攻めを中断し、まず三成との戦いをすべきだというのである。
この正則の発言で小山評定の流れは決まった。この後、「三成討つべし」の大合唱となったが、もう1人、重大発言をした武将がいた。山内(やまうち)一豊である。
一豊の居城は遠江の掛川城でったが、一豊は、その軍議の席上、「掛川城にはたくさんの兵糧があります。それを城ごと献上致しますので、家康様、どうぞご自由にお使いください」と発言して家康を感激させている。このあと、他の大名たちも、「我も」「我も」という状態で、軍議の流れは完全に「打倒三成」の方向になったといわれている。
一豊は、実際の関ヶ原の戦いの場面では南宮山の毛利・吉川軍の押さえとなっていたので、まったく戦功をあげる機会はなかった。そのためこれといった手柄をたてたわけでもなかったにもかかわらず、戦後、それまでの5万9,000石から土佐高知20万石へ栄転したのは、この一言によってであったと思われる。
実は、このことに関して、新井白石の著わした「藩翰譜(はんかんふ)」におもしろいエピソードが載っている。城を兵糧ごと献上するというアイデアは、浜松城主堀尾吉晴の子、忠氏が考えていたものだというのである。
小山評定に向かう道すがら、一豊が忠氏に、「三成と戦うことになったら、どう身を処したらよいだろうか」と話を向けると、「われは、我が城に兵糧をつけて内府様へ参らせ、人質をば吉田の城に入れて、自らは先陣して軍(いくさ)せんと思う」といったという。内府様というのは家康のことで、一豊が家康の前で発言したことと全く同じである。つまり、アイデアの盗用といわれてもしかたのない状況であった。
しかし、このアイデア盗用が問題となることはなかった。よい考えをもっていても、それを発言できる勇気が堀尾忠氏にはなかったのである。他人のアイデアながらまっさきに発言した一豊の決断が評価されたといえる。
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年09月20日
第7回 武将に学ぶ、「人脈作り」のコツ
織田信長のホスピタリティマインド
信長といえば、その残忍さを物語るエピソードがいくつも伝えられており、冷淡な性格だったという印象がある。ところが、その反面で、ときに人間味あふれる信長の姿をみることもできる。信長の人脈作りを支えたホスピタリティマインド、すなわち、おもてなしの心をみておきたい。1つは、ヨーロッパからきたイエズス会宣教師との交流である。
信長がキリスト教に理解を示し、布教を許可したことはよく知られている。京都に教会(南蛮寺)を建てさせ、安土にはセミナリヨ(神学校)まで建てさせ、ときおり、信長自身、セミナリヨを訪れ、オルガンの音色を楽しんでいる。
元亀3年(1572)、布教長のカブラルが、フロイスをともなって岐阜城の信長を訪ねたとき、「肉を食べるのか」と聞かれたカブラルが、「キリスト教では肉を食べるのを許している」と答えたところ、信長は自分が大事に飼っていた鳥を殺してカブラルらの食膳に供したことが知られている。しかも、自らお膳を運んだという。
そしてもう1つが有名な「安土饗応膳(きょうおうぜん)」である。天正10年(1582)3月、武田氏を滅ぼした信長は、甲斐から徳川家康の案内で駿河を経由して安土城に凱旋(がいせん)しているが、念願の富士遊覧を果たし、家康の接待を受けた。
武田討伐に際し、家康も駿河側から甲斐に攻め入っており、その論功行賞で駿河一国が与えられることになった。家康は、武田氏の一族で重臣だった穴山梅雪をともない、お礼のために安土城の信長を訪ねているが、そのとき、信長が家康・梅雪一行をもてなしたのが「安土饗応膳」というわけである。
5月15日から17日まで3日間にわたっての豪華な接待料理の様子が「天正十年安土御献立」(『続群書類従』所収)という史料に書かれており、このほど、滋賀県立安土城考古博物館と地元の民間観光振興団体「まんなかの会」が共同復元プロジェクトという形で饗応膳の再現に取り組み、私もその一部を試食させてもらったところである。
鯛(たい)・たこ・うるか・鮑(あわび)・鮒(ふな)ずしといった海の幸のオンパレードといったところで、特に、「ほやのひや汁」は印象に残った。まさに、王者の膳といってよいが、信長にとって、この「安土饗応膳」はいかなる意味をもっていたのだろうか。
信長としてみれば、自分と家康の2人を最後まで苦しめた武田勝頼を討った戦勝祝いという意味と、家康を慰労するというねらいがあったと思われるが、もう1つ、同盟強化を意図していたものと考えられる。それも、単なる対等の関係ではなく、信長が主で、家康が従となるための力の誇示も、この豪華な膳には隠されていたようである。
しかし、周知のように、この半月後、信長は明智光秀の謀反によって殺されてしまう。光秀が家康接待役を仰せつかりながら、途中で解任されたことは周知の事実で、そのことが本能寺の変とつながるのか、つながらないのかは、意見が分かれるところとなっている。
フットワークが軽かった石田三成
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのとき、西軍石田三成方に、全国のほぼ半数の大名が集まった。戦い後、取りつぶされた大名が88家におよんだことが、三成の人脈作りのすごさを物語っている。
よく、「何で三成は、負けるとわかっていた戦いに突っこんだのか」などといわれることがあるが、これは結果論で、三成が勝つ可能性はあった。
では、近江佐和山城主としてわずか19万4,000石の三成が、関東で250万石という大勢力をもっていた徳川家康に堂々と戦いを挑むことができたのはどうしてだったのだろうか。もちろん、豊臣政権の五奉行の1人として、秀吉をバックにしていたという強みはあった。しかし、秀吉の死後2年たった時点で全国の半数近くの大名が三成の旗の下に集まったのは、単に三成が「虎の威を借る狐」だったからではない。三成は積極的に人脈作りをしていたのである。
関ヶ原の戦いのとき、家康の意表をついて正面敵中突破を敢行し、薩摩に逃げ帰った島津義弘が三成方についたのは、秀吉による九州攻め後の戦後処理において、義弘が三成の恩恵を受けていたからであった。
具体的には、薩摩における太閤検地に際し、三成本人が薩摩に乗り込み、検地を指導していたのである。検地は、やり方をまちがえると、肥後の検地反対一揆で佐々成政が改易された例があることからも明らかなように、命取りになりかねなかったわけで、義弘としては三成に恩を受けた形であった。
三成の人脈というとき、盟友などといわれた直江兼続との関係は落とせない。直江兼続は上杉景勝の執政だったが、三成とは懇意にしていた。三成と兼続の2人の仲がより密接になったのは、慶長3年(1598)、上杉景勝の越後春日山から会津若松への転封(てんぽう)のときであった。
これは、蒲生氏郷の死後、家康と伊達政宗の間に楔(くさび)を打ちこむ必要から、秀吉の命令によって進められたものであるが、このとき、三成は自ら会津に乗りこみ、兼続と一緒になって国替にともなういくつかの難問を解決していた。実際、このとき、三成と兼続が連名で出した文書も残っており、景勝の転封がスムーズに進んだという印象がある。
このように、三成は、問題が生じた現場に自ら足を運び、問題解決に力を貸していた。このフットワークの軽さが、人脈作りに好結果をもたらしたことはいうまでもない。「人望がなかった」といわれることの多い三成であるが、勝者の書いた勝者の歴史では、どうしても悪者に描かれる傾向がある点は、きちんとみておかなければならない。
信長といえば、その残忍さを物語るエピソードがいくつも伝えられており、冷淡な性格だったという印象がある。ところが、その反面で、ときに人間味あふれる信長の姿をみることもできる。信長の人脈作りを支えたホスピタリティマインド、すなわち、おもてなしの心をみておきたい。1つは、ヨーロッパからきたイエズス会宣教師との交流である。
信長がキリスト教に理解を示し、布教を許可したことはよく知られている。京都に教会(南蛮寺)を建てさせ、安土にはセミナリヨ(神学校)まで建てさせ、ときおり、信長自身、セミナリヨを訪れ、オルガンの音色を楽しんでいる。
元亀3年(1572)、布教長のカブラルが、フロイスをともなって岐阜城の信長を訪ねたとき、「肉を食べるのか」と聞かれたカブラルが、「キリスト教では肉を食べるのを許している」と答えたところ、信長は自分が大事に飼っていた鳥を殺してカブラルらの食膳に供したことが知られている。しかも、自らお膳を運んだという。
そしてもう1つが有名な「安土饗応膳(きょうおうぜん)」である。天正10年(1582)3月、武田氏を滅ぼした信長は、甲斐から徳川家康の案内で駿河を経由して安土城に凱旋(がいせん)しているが、念願の富士遊覧を果たし、家康の接待を受けた。
武田討伐に際し、家康も駿河側から甲斐に攻め入っており、その論功行賞で駿河一国が与えられることになった。家康は、武田氏の一族で重臣だった穴山梅雪をともない、お礼のために安土城の信長を訪ねているが、そのとき、信長が家康・梅雪一行をもてなしたのが「安土饗応膳」というわけである。
5月15日から17日まで3日間にわたっての豪華な接待料理の様子が「天正十年安土御献立」(『続群書類従』所収)という史料に書かれており、このほど、滋賀県立安土城考古博物館と地元の民間観光振興団体「まんなかの会」が共同復元プロジェクトという形で饗応膳の再現に取り組み、私もその一部を試食させてもらったところである。
鯛(たい)・たこ・うるか・鮑(あわび)・鮒(ふな)ずしといった海の幸のオンパレードといったところで、特に、「ほやのひや汁」は印象に残った。まさに、王者の膳といってよいが、信長にとって、この「安土饗応膳」はいかなる意味をもっていたのだろうか。
信長としてみれば、自分と家康の2人を最後まで苦しめた武田勝頼を討った戦勝祝いという意味と、家康を慰労するというねらいがあったと思われるが、もう1つ、同盟強化を意図していたものと考えられる。それも、単なる対等の関係ではなく、信長が主で、家康が従となるための力の誇示も、この豪華な膳には隠されていたようである。
しかし、周知のように、この半月後、信長は明智光秀の謀反によって殺されてしまう。光秀が家康接待役を仰せつかりながら、途中で解任されたことは周知の事実で、そのことが本能寺の変とつながるのか、つながらないのかは、意見が分かれるところとなっている。
フットワークが軽かった石田三成
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのとき、西軍石田三成方に、全国のほぼ半数の大名が集まった。戦い後、取りつぶされた大名が88家におよんだことが、三成の人脈作りのすごさを物語っている。
よく、「何で三成は、負けるとわかっていた戦いに突っこんだのか」などといわれることがあるが、これは結果論で、三成が勝つ可能性はあった。
では、近江佐和山城主としてわずか19万4,000石の三成が、関東で250万石という大勢力をもっていた徳川家康に堂々と戦いを挑むことができたのはどうしてだったのだろうか。もちろん、豊臣政権の五奉行の1人として、秀吉をバックにしていたという強みはあった。しかし、秀吉の死後2年たった時点で全国の半数近くの大名が三成の旗の下に集まったのは、単に三成が「虎の威を借る狐」だったからではない。三成は積極的に人脈作りをしていたのである。
関ヶ原の戦いのとき、家康の意表をついて正面敵中突破を敢行し、薩摩に逃げ帰った島津義弘が三成方についたのは、秀吉による九州攻め後の戦後処理において、義弘が三成の恩恵を受けていたからであった。
具体的には、薩摩における太閤検地に際し、三成本人が薩摩に乗り込み、検地を指導していたのである。検地は、やり方をまちがえると、肥後の検地反対一揆で佐々成政が改易された例があることからも明らかなように、命取りになりかねなかったわけで、義弘としては三成に恩を受けた形であった。
三成の人脈というとき、盟友などといわれた直江兼続との関係は落とせない。直江兼続は上杉景勝の執政だったが、三成とは懇意にしていた。三成と兼続の2人の仲がより密接になったのは、慶長3年(1598)、上杉景勝の越後春日山から会津若松への転封(てんぽう)のときであった。
これは、蒲生氏郷の死後、家康と伊達政宗の間に楔(くさび)を打ちこむ必要から、秀吉の命令によって進められたものであるが、このとき、三成は自ら会津に乗りこみ、兼続と一緒になって国替にともなういくつかの難問を解決していた。実際、このとき、三成と兼続が連名で出した文書も残っており、景勝の転封がスムーズに進んだという印象がある。
このように、三成は、問題が生じた現場に自ら足を運び、問題解決に力を貸していた。このフットワークの軽さが、人脈作りに好結果をもたらしたことはいうまでもない。「人望がなかった」といわれることの多い三成であるが、勝者の書いた勝者の歴史では、どうしても悪者に描かれる傾向がある点は、きちんとみておかなければならない。
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年09月04日
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
話術で出世した豊臣秀吉
木下藤吉郎といっていたのちの秀吉が、織田信長に仕えるようになったのは、前田利家とほぼ同時だった。スタートラインは同じで、利家は信長親衛隊である母衣(ほろ)衆の1人で、秀吉は小者(こもの)なので、身分的には利家の方が上だった。
ところが、数年して、秀吉の方が早く出世していくのである。これは、信長流人事だったからありえたことで、信長以外の武将だったら考えられないことであった。というのは、利家はニックネームの「槍の又左(やりのまたざ)」からもうかがわれるように、槍働きにたけていたのに対し、背は低く、体も華奢(きゃしゃ)な秀吉はあまり武闘は得意ではなかったからである。そのころの論功行賞の基準は、武功、すなわち、戦いでの手柄がすべてであった。
秀吉にとって幸いしたのは、信長がそうした武功以外にも論功行賞の評価のものさしをもっていた点である。よく知られているように、秀吉が信長に仕えたばかりのころの役職というか立場は小者であった。城内の雑用係である。その仕事の1つが有名な草履(ぞうり)取りだった。信長から「出かけるぞ」と声がかかれば、「はっ」といって草履を揃える役である。
では、そのような小者である秀吉が信長の目にとまり、利家より早く出世していくことになったのはなぜだったのだろうか。この点について書かれたものはないが、私は信長が秀吉の話術の才を見いだしたのではないかと考えている。
草履取りは、そのまま馬の轡(くつわ)取りもやる。信長も家臣と一緒に外に出るときは家臣と会話することになるが、1人だけで出るときには、馬の轡を取っている秀吉に話しかけることもあったと思われる。その際、秀吉の反応のよさ、話し上手に気がついたのではなかろうか。秀吉は、信長に仕える前、職人・商人などいくつかの職を経験しており、話題も豊富だったらしい。よく、秀吉のことを「人たらしの天才」などというが、信長は、秀吉の特技ともいうべきこの話術を使うことを考え、それを実行に移しているのである。
ちょうど、信長が美濃の斎藤龍興と戦っているとき、前田利家たち槍働き隊を使って木曾川を越えて攻め入らせているが、なかなか埒(らち)があかなかった。そこで、信長は秀吉の話術の才を使っている。秀吉に「秘かに木曾川を渡り、斎藤家の家臣の切り崩しをせよ」との命令である。
秀吉の寝返り工作を受け、何人かが内応を約束してきた。それを受け、信長は、永禄10年(1567)8月15日、利家たちの槍働き隊に命じて美濃に攻めこませている。すると、その動きに呼応し、秀吉に内応していた何人かの斎藤家の家臣が信長に内通し、謀反をおこしたので、あの難攻不落といわれた稲葉山城はたった1日で落ちているのである。これで、秀吉は利家より早く出世している。利家の武功よりも、秀吉の話術、すなわちプレゼンテーション力を上とみたことになる。
黒田如水(じょすい)の説得力
このあと、秀吉は、信長が近江の浅井長政と戦った時、同じように、浅井家臣の切り崩し工作を行い、天正元年(1573)、浅井家を滅ぼしたあと、その遺領をもらい、城を小谷城から長浜城に移し、12万石の大名となっている。
そして、その秀吉が天正5年(1577)から「中国方面軍司令官」として播磨に乗りこんでいったとき、姫路城主の黒田官兵衛孝高(よしたか)、すなわち如水が味方となり、この如水の働きによって播磨の平定に成功する。如水も、秀吉と同じく話術の才にたけていたのである。
このあと、信長死後における秀吉の天下統一の過程で、如水の説得力にますます磨きがかかるわけで、秀吉流「戦わずに勝つ戦法」を実践していくことになる。具体的によくわかるのが天正15年(1587)の九州攻めと、同18年(1590)の小田原攻めなので、その2つについて詳しくみていくことにしたい。
九州攻めは、秀吉自らが20万を超す大群で九州に攻め入るのは天正15年であるが、すでに前の年、14年7月10日に島津氏討伐を決定し、いわば秀吉本隊の露払いとして、如水は九州に渡り、先鋒となって進軍した毛利・芳川・小早川軍とともに北九州の島津軍と戦闘状態に入っている。
そして、注目されるのは、このとき、如水が島津方になびいていた北九州の武将たちに、「味方をすれば本領安堵」という餌をちらつかせながら勧降工作を行い、ほとんどの武将に内応の約束をさせていた点である。翌年、秀吉本隊が九州にわたるとともに、如水に内応を約束してきていた武将は戦わずに秀吉陣営に加わっており、島津義久を降服に追いこむことに成功しているのである。
如水自身はその後、同17年(1589)に家督を子長政に譲っていたが、翌18年の小田原攻めには、秀吉に乞(こ)われて従軍している。秀吉も、如水のプレゼンテーション力に期待していたからである。
小田原攻めのとき、秀吉は21万とも22万ともいわれる大軍で北条氏政・氏直父子の小田原城を包囲した。北条方では惣構(そうがまえ)といわれる城と町を包んだ大外郭でこれに対抗し、秀吉としても力攻めで落とすのは難しいと考え、如水をよんで、説得工作を行わせている。
如水はあらかじめ、酒と肴(さかな)を小田原城内に贈っておいて、自らは6月24日、無刀・肩衣(かたぎぬ)袴の姿で小田原城内に乗りこみ、氏直に対し開城を説得している。その結果、籠城3ヵ月の7月5日、氏直から降服を申し出てきた。この如水の説得力によって、城内5万6,000の兵の命が救われたことになる。
木下藤吉郎といっていたのちの秀吉が、織田信長に仕えるようになったのは、前田利家とほぼ同時だった。スタートラインは同じで、利家は信長親衛隊である母衣(ほろ)衆の1人で、秀吉は小者(こもの)なので、身分的には利家の方が上だった。
ところが、数年して、秀吉の方が早く出世していくのである。これは、信長流人事だったからありえたことで、信長以外の武将だったら考えられないことであった。というのは、利家はニックネームの「槍の又左(やりのまたざ)」からもうかがわれるように、槍働きにたけていたのに対し、背は低く、体も華奢(きゃしゃ)な秀吉はあまり武闘は得意ではなかったからである。そのころの論功行賞の基準は、武功、すなわち、戦いでの手柄がすべてであった。
秀吉にとって幸いしたのは、信長がそうした武功以外にも論功行賞の評価のものさしをもっていた点である。よく知られているように、秀吉が信長に仕えたばかりのころの役職というか立場は小者であった。城内の雑用係である。その仕事の1つが有名な草履(ぞうり)取りだった。信長から「出かけるぞ」と声がかかれば、「はっ」といって草履を揃える役である。
では、そのような小者である秀吉が信長の目にとまり、利家より早く出世していくことになったのはなぜだったのだろうか。この点について書かれたものはないが、私は信長が秀吉の話術の才を見いだしたのではないかと考えている。
草履取りは、そのまま馬の轡(くつわ)取りもやる。信長も家臣と一緒に外に出るときは家臣と会話することになるが、1人だけで出るときには、馬の轡を取っている秀吉に話しかけることもあったと思われる。その際、秀吉の反応のよさ、話し上手に気がついたのではなかろうか。秀吉は、信長に仕える前、職人・商人などいくつかの職を経験しており、話題も豊富だったらしい。よく、秀吉のことを「人たらしの天才」などというが、信長は、秀吉の特技ともいうべきこの話術を使うことを考え、それを実行に移しているのである。
ちょうど、信長が美濃の斎藤龍興と戦っているとき、前田利家たち槍働き隊を使って木曾川を越えて攻め入らせているが、なかなか埒(らち)があかなかった。そこで、信長は秀吉の話術の才を使っている。秀吉に「秘かに木曾川を渡り、斎藤家の家臣の切り崩しをせよ」との命令である。
秀吉の寝返り工作を受け、何人かが内応を約束してきた。それを受け、信長は、永禄10年(1567)8月15日、利家たちの槍働き隊に命じて美濃に攻めこませている。すると、その動きに呼応し、秀吉に内応していた何人かの斎藤家の家臣が信長に内通し、謀反をおこしたので、あの難攻不落といわれた稲葉山城はたった1日で落ちているのである。これで、秀吉は利家より早く出世している。利家の武功よりも、秀吉の話術、すなわちプレゼンテーション力を上とみたことになる。
黒田如水(じょすい)の説得力
このあと、秀吉は、信長が近江の浅井長政と戦った時、同じように、浅井家臣の切り崩し工作を行い、天正元年(1573)、浅井家を滅ぼしたあと、その遺領をもらい、城を小谷城から長浜城に移し、12万石の大名となっている。
そして、その秀吉が天正5年(1577)から「中国方面軍司令官」として播磨に乗りこんでいったとき、姫路城主の黒田官兵衛孝高(よしたか)、すなわち如水が味方となり、この如水の働きによって播磨の平定に成功する。如水も、秀吉と同じく話術の才にたけていたのである。
このあと、信長死後における秀吉の天下統一の過程で、如水の説得力にますます磨きがかかるわけで、秀吉流「戦わずに勝つ戦法」を実践していくことになる。具体的によくわかるのが天正15年(1587)の九州攻めと、同18年(1590)の小田原攻めなので、その2つについて詳しくみていくことにしたい。
九州攻めは、秀吉自らが20万を超す大群で九州に攻め入るのは天正15年であるが、すでに前の年、14年7月10日に島津氏討伐を決定し、いわば秀吉本隊の露払いとして、如水は九州に渡り、先鋒となって進軍した毛利・芳川・小早川軍とともに北九州の島津軍と戦闘状態に入っている。
そして、注目されるのは、このとき、如水が島津方になびいていた北九州の武将たちに、「味方をすれば本領安堵」という餌をちらつかせながら勧降工作を行い、ほとんどの武将に内応の約束をさせていた点である。翌年、秀吉本隊が九州にわたるとともに、如水に内応を約束してきていた武将は戦わずに秀吉陣営に加わっており、島津義久を降服に追いこむことに成功しているのである。
如水自身はその後、同17年(1589)に家督を子長政に譲っていたが、翌18年の小田原攻めには、秀吉に乞(こ)われて従軍している。秀吉も、如水のプレゼンテーション力に期待していたからである。
小田原攻めのとき、秀吉は21万とも22万ともいわれる大軍で北条氏政・氏直父子の小田原城を包囲した。北条方では惣構(そうがまえ)といわれる城と町を包んだ大外郭でこれに対抗し、秀吉としても力攻めで落とすのは難しいと考え、如水をよんで、説得工作を行わせている。
如水はあらかじめ、酒と肴(さかな)を小田原城内に贈っておいて、自らは6月24日、無刀・肩衣(かたぎぬ)袴の姿で小田原城内に乗りこみ、氏直に対し開城を説得している。その結果、籠城3ヵ月の7月5日、氏直から降服を申し出てきた。この如水の説得力によって、城内5万6,000の兵の命が救われたことになる。
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2013年08月07日
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
|武田信玄は手柄を部下のものとした
戦国大名は、戦いが終わると必ず論功行賞があった。手柄に応じて恩賞が与えられる。武士たちにしても、戦いに出れば傷を負うかもしれないし、へたをすれば命を取られるわけで、できることなら、戦いには出たくなかったと思われる。
しかし、戦国大名は食うか食われるかの時代で、少しでも領土を広げていかないことには自滅を待つばかりであった。そこで、絶えることなく領土拡大のための合戦が引きおこされることになり、その合戦に部下を動員するために、恩賞という形の餌で動員せざるをえなかったのである。領土拡大の戦いをしかけ、その戦いで戦功をあげた家臣に、敵から奪い取った土地を恩賞として与えることになる。
現在、”一生懸命”という字を書くが、これは本来、”一所懸命”で、武士たちが、恩賞としてもらう土地のために命懸けで働くことと、もらった土地を、やはり、命がけで子孫に伝えていくという意味からきている。その意味でも、論功行賞は大事で、どの戦国武将も論功行賞は大事で、どの戦国武将も論功行賞には相当気を使っていた。
その場合、当時の武将たちも気をつけていた点が2つある。1つは、ある程度きちんとした査定基準を設けていた点である。それがないと、総大将の気分1つで評価がちがってしまい、恣意的な論功行賞になってしまう危険があったからである。たいした手柄もないのに、自分のお気に入りを褒め、恩賞を与えたりすれば、他のがんばった家臣たちの心は離れていくことになる。
もう1つは、よくありがちな恩賞の出し惜しみである。手柄をたてた家臣がいたのにもかかわらず、総大将が手柄を一人占めして、いわゆる「一将功成りて万骨枯る」といわれる情況をいう。
この点で私が注目しているのは武田信玄の言行である。『甲陽軍鑑』につぎのような信玄の言葉が紹介されている。
よき大将は、軍(いくさ)の時、悉皆(しっかい)
我が采配(さいはい)を以て勝利をえ給ひ
ても、ぬしの手柄とはなくして、近習・小姓・
小殿原・若党・小人・中間衆迄もほめたて、皆、
あれらが働(はたらき)を以て、合戦に勝たると仰せらる。
要するに、自分の采配によって勝った戦いでも、「部下の働きがあったから勝てたのだ」と言って、部下を褒めていたことがわかる。ここでは、ただ褒めたとだけしか書かれていないが、当然、言葉で褒めるだけでなく、恩賞も与えたはずである。部下のやる気を引きだす効果的なやり方といってよい。
|何人もいた褒め上手の武将たち
実は、褒め上手の武将は信玄だけでなく何人もいた。たとえば、関東の扇谷(おうぎがやつ)上杉定正はその1人である。扇谷上杉は山内(やまのうち)上杉と並び、「両上杉」などといわれていたが、その上杉定正が養子の朝良(ともよし)に与えた遺言状(「上杉定正状」)があり、その中で褒める効用を強調している。
戦いを前にして作戦を考えていた時、家臣の1人が「今度の戦い、こう戦ったらどうでしょうか」と作戦を進言してきたという場面設定をして、そのとき、家臣がいってきた作戦と同じようなものを自分が考えていたとしても、「その作戦なら自分も考えている」と言ってはいけないとしている。自分が考えていたことはおくびにも出さず、その作戦を使って勝ったならば、褒め、恩賞も与えるようにといっている。
「上杉定正状」にはそこまでしか書かれていないが、褒められ、恩賞も与えられたことで、その家臣が次の戦いのときも作戦を考えるであろうことが期待される。そしてもう1つ、褒められた家臣の同僚が、「つぎは俺たちも」と、やる気をおこす効果もあったのではなかろうか。褒めることで、組織全体の活性化がはかられたのである。
褒める効用に関して、もう1つ興味深いエピソードがあるので、ここで紹介しておきたい。
加藤清正の家臣飯田覚兵衛についてのエピソードで、湯浅常山の著わした『常山紀談』に載っている。
ちなみに、この飯田覚兵衛は森本義太夫とともに清正の家老として知られ、熊本城内に、飯田櫓(やぐら)という飯田覚兵衛の名にちなんだ櫓があったことからもうかがえるように、清正を支えた1人であった。
ところが、清正の子忠弘の時、加藤家は改易の憂き目にあい、飯田覚兵衛は浪人してしまい、老齢だったこともあり、京都に隠棲(いんせい)しており、その時述懐したという言葉が実に面白い。原文のままの方が味わい深いので、次に『常山紀談』から覚兵衛の言葉を引用しておきたい。
我一生主計頭(かずえのかみ)にだまされたり。
初めて軍に出て功名しける時、朋輩(ほうばい)多く
鉄砲に中(あた)りて死しけり。危ふき事よ、はや
是までにて武士の仕へはすまじきとおもひたるに、
帰るやいなや、清正時をすかさず、今日の働き
神妙いはんかたなしとて刀を賜はりき。斯くの如く毎度
其場を去りては後悔すれども、主計頭其時をうつさず陣羽織、
或は感状をあたへ、人々もみな羨みてほめたてたりしゆゑ、
其れにひかれてやむ事を得ず、さいはいも取、士(さむらい)大将と
いはれしは、主計頭にだまされて本意を失ひたるなり。
冒頭の主計頭というのは加藤主計頭、すなわち清正のことである。戦いに出て、同僚たちが戦死する様子を見て、「武士をやめたい」と思い、清正にそのことを上言する前に、清正の方から、「今日の働き神妙いはんなし」と褒められ、また、恩賞ももらい、ずるずるときてしまったというのである。
これほど褒める効用を極端に示しているエピソードはあまりない。
戦国大名は、戦いが終わると必ず論功行賞があった。手柄に応じて恩賞が与えられる。武士たちにしても、戦いに出れば傷を負うかもしれないし、へたをすれば命を取られるわけで、できることなら、戦いには出たくなかったと思われる。
しかし、戦国大名は食うか食われるかの時代で、少しでも領土を広げていかないことには自滅を待つばかりであった。そこで、絶えることなく領土拡大のための合戦が引きおこされることになり、その合戦に部下を動員するために、恩賞という形の餌で動員せざるをえなかったのである。領土拡大の戦いをしかけ、その戦いで戦功をあげた家臣に、敵から奪い取った土地を恩賞として与えることになる。
現在、”一生懸命”という字を書くが、これは本来、”一所懸命”で、武士たちが、恩賞としてもらう土地のために命懸けで働くことと、もらった土地を、やはり、命がけで子孫に伝えていくという意味からきている。その意味でも、論功行賞は大事で、どの戦国武将も論功行賞は大事で、どの戦国武将も論功行賞には相当気を使っていた。
その場合、当時の武将たちも気をつけていた点が2つある。1つは、ある程度きちんとした査定基準を設けていた点である。それがないと、総大将の気分1つで評価がちがってしまい、恣意的な論功行賞になってしまう危険があったからである。たいした手柄もないのに、自分のお気に入りを褒め、恩賞を与えたりすれば、他のがんばった家臣たちの心は離れていくことになる。
もう1つは、よくありがちな恩賞の出し惜しみである。手柄をたてた家臣がいたのにもかかわらず、総大将が手柄を一人占めして、いわゆる「一将功成りて万骨枯る」といわれる情況をいう。
この点で私が注目しているのは武田信玄の言行である。『甲陽軍鑑』につぎのような信玄の言葉が紹介されている。
よき大将は、軍(いくさ)の時、悉皆(しっかい)
我が采配(さいはい)を以て勝利をえ給ひ
ても、ぬしの手柄とはなくして、近習・小姓・
小殿原・若党・小人・中間衆迄もほめたて、皆、
あれらが働(はたらき)を以て、合戦に勝たると仰せらる。
要するに、自分の采配によって勝った戦いでも、「部下の働きがあったから勝てたのだ」と言って、部下を褒めていたことがわかる。ここでは、ただ褒めたとだけしか書かれていないが、当然、言葉で褒めるだけでなく、恩賞も与えたはずである。部下のやる気を引きだす効果的なやり方といってよい。
|何人もいた褒め上手の武将たち
実は、褒め上手の武将は信玄だけでなく何人もいた。たとえば、関東の扇谷(おうぎがやつ)上杉定正はその1人である。扇谷上杉は山内(やまのうち)上杉と並び、「両上杉」などといわれていたが、その上杉定正が養子の朝良(ともよし)に与えた遺言状(「上杉定正状」)があり、その中で褒める効用を強調している。
戦いを前にして作戦を考えていた時、家臣の1人が「今度の戦い、こう戦ったらどうでしょうか」と作戦を進言してきたという場面設定をして、そのとき、家臣がいってきた作戦と同じようなものを自分が考えていたとしても、「その作戦なら自分も考えている」と言ってはいけないとしている。自分が考えていたことはおくびにも出さず、その作戦を使って勝ったならば、褒め、恩賞も与えるようにといっている。
「上杉定正状」にはそこまでしか書かれていないが、褒められ、恩賞も与えられたことで、その家臣が次の戦いのときも作戦を考えるであろうことが期待される。そしてもう1つ、褒められた家臣の同僚が、「つぎは俺たちも」と、やる気をおこす効果もあったのではなかろうか。褒めることで、組織全体の活性化がはかられたのである。
褒める効用に関して、もう1つ興味深いエピソードがあるので、ここで紹介しておきたい。
加藤清正の家臣飯田覚兵衛についてのエピソードで、湯浅常山の著わした『常山紀談』に載っている。
ちなみに、この飯田覚兵衛は森本義太夫とともに清正の家老として知られ、熊本城内に、飯田櫓(やぐら)という飯田覚兵衛の名にちなんだ櫓があったことからもうかがえるように、清正を支えた1人であった。
ところが、清正の子忠弘の時、加藤家は改易の憂き目にあい、飯田覚兵衛は浪人してしまい、老齢だったこともあり、京都に隠棲(いんせい)しており、その時述懐したという言葉が実に面白い。原文のままの方が味わい深いので、次に『常山紀談』から覚兵衛の言葉を引用しておきたい。
我一生主計頭(かずえのかみ)にだまされたり。
初めて軍に出て功名しける時、朋輩(ほうばい)多く
鉄砲に中(あた)りて死しけり。危ふき事よ、はや
是までにて武士の仕へはすまじきとおもひたるに、
帰るやいなや、清正時をすかさず、今日の働き
神妙いはんかたなしとて刀を賜はりき。斯くの如く毎度
其場を去りては後悔すれども、主計頭其時をうつさず陣羽織、
或は感状をあたへ、人々もみな羨みてほめたてたりしゆゑ、
其れにひかれてやむ事を得ず、さいはいも取、士(さむらい)大将と
いはれしは、主計頭にだまされて本意を失ひたるなり。
冒頭の主計頭というのは加藤主計頭、すなわち清正のことである。戦いに出て、同僚たちが戦死する様子を見て、「武士をやめたい」と思い、清正にそのことを上言する前に、清正の方から、「今日の働き神妙いはんなし」と褒められ、また、恩賞ももらい、ずるずるときてしまったというのである。
これほど褒める効用を極端に示しているエピソードはあまりない。
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2013年06月21日
第4回 織田信長と黒田官兵衛の情報収集力
|武功より情報を評価した織田信長
永禄3年(1560)5月19日の尾張桶狭間の戦いのとき、今川義元に最初に槍をつけたのは、織田信長の家臣服部小平太である。ところが、義元も必死の抵抗をしたので、首を取るまでにはいかなかった。二番手に飛び込んだ、やはり信長家臣の毛利新介が義元の首を取っている。どちらも一番槍の功名、一番首の功名というわけである。
このような場合、一番手柄をどちらにするかは判断が難しいが、ふつうは、2人のどちらかが一番手柄として賞されることになる。
桶狭間の戦いの論功行賞は戦いの翌日、5月20日に行われた。清洲城に集まった家臣たちは、皆、前日の戦いの模様は知っているので、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかだろうと思っていた。ところが、信長が一番に名前を呼んだのは簗田(やなだ)政綱という武士であった。前日の戦いで、簗田政綱が目立った大手柄を立てていたならまだしも、活躍ぶりが目につかなかったので、居並ぶ信長家臣たちは一様に「何で」という声をあげたのではないかと思われる。
この簗田政綱は、沓掛(くつかけ)というところに住む士豪、すなわち地侍の1人だった。5月19日、近くの沓掛城を出陣していく今川義元の動静を信長に情報として届けていたのである。その中身は3つあったと思われる。1つは、今川軍は2万5,000だが、2万は別な方向に進み、義元本隊は5,000だということ。2つ目は、進んでいる方向から、目的地は大高城だと思われ、沓掛城と大高城の中間地点の桶狭間で昼食休憩を取るのではないかということ。
そして3つ目が決定的な情報だった。この日、義元は馬ではなく輿に乗って出陣しているというのである。
信長は、この簗田政綱からの情報をもとに、お昼ごろ、昼食休憩を取っている桶狭間山に奇襲をかける作戦を考え、「輿のあるところを中心に攻撃せよ」という命令を出したのである。つまり、信長としては、こうした作戦に従って働き、義元に槍をつけた服部小平太、義元の首を取った毛利新介武功よりも、作戦そのものを考え出す情報を届けてきた簗田政綱の方が、手柄は上であると見たのである。
それまで、武士の論功行賞評価基準は武功だけだったが、この桶狭間の戦い後の信長による論功行賞で、はじめて情報が評価され、武功の上に位置づけられたのである。
武功以外も評価する信長だったからこそ、秀吉の働きも認め、武功派の代表格といってよい前田利家より、秀吉の方が早く出世できたのである。秀吉がもし信長ではない戦国武将に仕えていれば、秀吉は一生、足軽で終わったかもしれない。
|黒田官兵衛の情報収集活動
さて、有効な情報を素早く集め、それを効果的に使ったのが黒田官兵衛孝高(如水)である。一例として、天正13年(1585)の豊臣軍による四国長宗我部攻めについてみておきたい。
四国攻めにあたり、当初は秀吉自身が総大将になるつもりでいたが、病気になったので、代わりに弟秀長が総大将となり、甥の秀次が副将となった。秀長率いる3万の軍勢が堺から淡路島の洲本に渡り、秀次率いるやはり3万の軍勢が明石から洲本の福良に渡り、合わせて6万の大軍が阿波の土佐泊に上陸した。
こうした動きは長宗我部元親側もあらかじめ読んでいて、軍勢の主力を阿波に投入し、また、阿波の主要な城の強化を行い、戦闘態勢を整えていたのである。
黒田官兵衛は、そうした長宗我部側の防衛態勢に関する情報収集をし、敵の裏をかく作戦をたてている。具体的にみると、官兵衛は、蜂須賀正勝・宇喜多将長宗我部掃部頭も元親の重臣として人望もあり、彼を中心にして城兵が結束を固めていることがわかった。結論として官兵衛は、力攻めでは容易に落とせないだろうということになった。
そこで官兵衛は、敵城に対し、威嚇をくりかえし、最後に「口愛」(あつかい=仲裁)を入れて会場に持ち込む策を取ることにし、まず、付近から材木を集めさせ、城中の櫓(やぐら)よりも高く組み上げ、城を見おろす場所を作らせ、鉄砲を撃ちかけ、しかも、1日に3度、鬨(とき)の声をあげさせたという。
これには、さすが、勇猛なことで知られる長宗我部軍の戦意が萎え、次第に厭戦(えんせん)気分が広がり始めた。そうした状況も官兵衛は見逃さなかった。頃あいよしとみた官兵衛が「口愛」(まかない)を入れ、開城勧告をすると、敵はあっさりとそれに応じてきたのである。情報を収集し、それを効果的に使った官兵衛だからこそつかみとった成果といえる。この岩倉城開城で、次第にほかの城も降伏する形となった。
永禄3年(1560)5月19日の尾張桶狭間の戦いのとき、今川義元に最初に槍をつけたのは、織田信長の家臣服部小平太である。ところが、義元も必死の抵抗をしたので、首を取るまでにはいかなかった。二番手に飛び込んだ、やはり信長家臣の毛利新介が義元の首を取っている。どちらも一番槍の功名、一番首の功名というわけである。
このような場合、一番手柄をどちらにするかは判断が難しいが、ふつうは、2人のどちらかが一番手柄として賞されることになる。
桶狭間の戦いの論功行賞は戦いの翌日、5月20日に行われた。清洲城に集まった家臣たちは、皆、前日の戦いの模様は知っているので、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかだろうと思っていた。ところが、信長が一番に名前を呼んだのは簗田(やなだ)政綱という武士であった。前日の戦いで、簗田政綱が目立った大手柄を立てていたならまだしも、活躍ぶりが目につかなかったので、居並ぶ信長家臣たちは一様に「何で」という声をあげたのではないかと思われる。
この簗田政綱は、沓掛(くつかけ)というところに住む士豪、すなわち地侍の1人だった。5月19日、近くの沓掛城を出陣していく今川義元の動静を信長に情報として届けていたのである。その中身は3つあったと思われる。1つは、今川軍は2万5,000だが、2万は別な方向に進み、義元本隊は5,000だということ。2つ目は、進んでいる方向から、目的地は大高城だと思われ、沓掛城と大高城の中間地点の桶狭間で昼食休憩を取るのではないかということ。
そして3つ目が決定的な情報だった。この日、義元は馬ではなく輿に乗って出陣しているというのである。
信長は、この簗田政綱からの情報をもとに、お昼ごろ、昼食休憩を取っている桶狭間山に奇襲をかける作戦を考え、「輿のあるところを中心に攻撃せよ」という命令を出したのである。つまり、信長としては、こうした作戦に従って働き、義元に槍をつけた服部小平太、義元の首を取った毛利新介武功よりも、作戦そのものを考え出す情報を届けてきた簗田政綱の方が、手柄は上であると見たのである。
それまで、武士の論功行賞評価基準は武功だけだったが、この桶狭間の戦い後の信長による論功行賞で、はじめて情報が評価され、武功の上に位置づけられたのである。
武功以外も評価する信長だったからこそ、秀吉の働きも認め、武功派の代表格といってよい前田利家より、秀吉の方が早く出世できたのである。秀吉がもし信長ではない戦国武将に仕えていれば、秀吉は一生、足軽で終わったかもしれない。
|黒田官兵衛の情報収集活動
さて、有効な情報を素早く集め、それを効果的に使ったのが黒田官兵衛孝高(如水)である。一例として、天正13年(1585)の豊臣軍による四国長宗我部攻めについてみておきたい。
四国攻めにあたり、当初は秀吉自身が総大将になるつもりでいたが、病気になったので、代わりに弟秀長が総大将となり、甥の秀次が副将となった。秀長率いる3万の軍勢が堺から淡路島の洲本に渡り、秀次率いるやはり3万の軍勢が明石から洲本の福良に渡り、合わせて6万の大軍が阿波の土佐泊に上陸した。
こうした動きは長宗我部元親側もあらかじめ読んでいて、軍勢の主力を阿波に投入し、また、阿波の主要な城の強化を行い、戦闘態勢を整えていたのである。
黒田官兵衛は、そうした長宗我部側の防衛態勢に関する情報収集をし、敵の裏をかく作戦をたてている。具体的にみると、官兵衛は、蜂須賀正勝・宇喜多将長宗我部掃部頭も元親の重臣として人望もあり、彼を中心にして城兵が結束を固めていることがわかった。結論として官兵衛は、力攻めでは容易に落とせないだろうということになった。
そこで官兵衛は、敵城に対し、威嚇をくりかえし、最後に「口愛」(あつかい=仲裁)を入れて会場に持ち込む策を取ることにし、まず、付近から材木を集めさせ、城中の櫓(やぐら)よりも高く組み上げ、城を見おろす場所を作らせ、鉄砲を撃ちかけ、しかも、1日に3度、鬨(とき)の声をあげさせたという。
これには、さすが、勇猛なことで知られる長宗我部軍の戦意が萎え、次第に厭戦(えんせん)気分が広がり始めた。そうした状況も官兵衛は見逃さなかった。頃あいよしとみた官兵衛が「口愛」(まかない)を入れ、開城勧告をすると、敵はあっさりとそれに応じてきたのである。情報を収集し、それを効果的に使った官兵衛だからこそつかみとった成果といえる。この岩倉城開城で、次第にほかの城も降伏する形となった。
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2013年05月24日
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
|織田信長は撤退をリセットと考えた
元亀(げんき)元年(1570)4月20日、織田信長は2万の大軍を率いて京都を出陣し、越前に向かった。再三の呼び出しに、越前の朝倉義景が応じなかったからである。その頃、義景は既に足利義昭と気脈を通じていた。義昭は信長のおかげで第15代将軍にはついたものの、実権は信長が握り、不満を親しい大名にもらしはじめていたのである。
織田軍が越前に攻め入り、木の芽峠を越えようとしたまさにそのとき、織田の妹お市が嫁ぎ、信長の同盟軍だった近江小谷城主の浅井(あざい)長政の謀反が信長に伝えられた。信長は、はじめ、『信長公記』によると、「虚説たるべし」といって本気にはしなかったという。当時、嘘の情報を流して敵を攪乱(かくらん)するのが戦法としてよくみられたからである。しかし、第二報、第三報が入るに従い、長政の謀反は確実だということが明らかになった。
木の芽峠を越えれば、朝倉義景の本拠一乗谷はすぐそこである。このような場合、ふつうの武将なら、背後から攻めてくるであろう浅井軍に備えを残し、本隊はそのまま一乗谷に攻め込んでいったと思われる。
ところが、このとき、信長は全軍に撤退を命じているのである。リスクマネジメントを考え、それ以上の攻撃続行は危険と判断したことになる。負け戦ならまだしも、勝ち戦のとき、撤退の判断を下すのは容易でないと思われる。
また、戦国武将の当時の一般的な考えとして、「負け候へば、自害におよび候こと、侍の本用に候」などといって、負けたならば、そこで潔く腹を切るのが本当の侍だという意識があり、負けて逃げもどるのは恥だとの観念もあり、信長でなければ、そこに踏みとどまり、前面の朝倉軍と、背後の浅井軍とに挟まれて戦いになる可能性があった。
信長は、金ヶ崎城に秀吉・明智光秀、それに池田隆正の3人を残し、琵琶湖の西岸、朽木谷(くつきだに)経由で京都に逃げもどっている。信長に従う者はわずかに十数騎だけだったという。
ちなみに、この時、殿(しんがり)として金ヶ崎城に残された秀吉らが朝倉軍の追撃を止め、「藤吉郎金ヶ崎の退き口」といわれ、秀吉の武功を物語るものとなっているが、実際は明智光秀も働いていたのである。その後、池田隆正は鳴かず飛ばずで終え、光秀は山崎の戦いのあと殺されているので、本当は3人であげた手柄なのに、秀吉の一人占めという形で語り伝えられることになった。
ふつうの武将の感覚だと、2万の大軍で威風堂々と出陣しながら、わずか十数騎に守られ、ボロボロになって逃げ帰ってくる姿はみせたくないと考えるところであろう。信長は、撤退を1つのリセットと考えていたものと思われる。「また、一からやり直せばいい」ととらえたのである。失敗をズルズルあとまで引くのではなく、人生、やり直しがきくということを、信長は今日の我々に教えてくれているのではないだろうか。
|石田三成の瞬時の好判断
神沢貞幹(かんざわさだもと)の『翁草』および岡谷繁実の『名将言行録』に、石田三成に関する興味深いエピソードが載っている。何年何月のことかの記載はないが、大雨で淀川の水が増水し、河内堤が切れそうになったことがあった。
大阪の町は、大和川や平野川が淀川に注ぎ込む位置にできていて、大阪城は二重、三重の水堀によって囲まれ、「八百八橋」(はっぴゃくやばし)といったいい方もあるように、水の都であった。
河内堤が切れれば、町はおろか、秀吉のいる大阪城まで水浸しになってしまう恐れがあった。このときは、秀吉自身も雨をついて京橋口まで出て様子を見守っており、諸大名も家臣たちを動員し、土俵を積んで何とか堤防の決壊だけは防ごうと必死になっていた。
ところが、この時の雨は記録破りの大雨だったらしく、淀川の水かさはみるみるふえていき、決壊の危険がさしせまっていた。それを防ぐためにはどんどん土俵を積んでいかなければならないわけであるが、大雨を予想して、事前に大量の土俵を用意していたわけではないので、対策を協議しても名案が出ることもなく、秀吉以下、水かさがふえるのを、ただ、手をこまねいてみているしかなかったのである。
五奉行の1人、石田三成も現場に出て成り行きを見守っていたが、ただ1基、決壊しそうな場所を検分し、取って返し、当時、京橋口にあった大阪城の米蔵の扉を開かせ、中に積まれていた数千俵の米俵を決壊箇所に運ばせたのである。つまり、三成は、土俵の代わりに米俵を積んで決壊をくいとめようとし、みごと成功させている。
これは、秀吉も考えつかなかった好判断で、三成のリスクマネジメントが好結果をもたらしたことになる。
このエピソードからいくつかのことが浮き彫りになってくる。1つは、三成の「計数の才」である。堤防が決壊し、大阪中が水浸しになったときのリスクの大きさと、米俵数千俵の損失額とを瞬時に計算し、米俵を犠牲にした方が損失が少ないと判断したものと思われる。
もう1つは、三成が秀吉の許可を求めることなく、独断で米俵を運ばせていた点で、声は、三成が秀吉の信頼を得ていたからこそできた芸当だったといえる。
なお、この話には後日譚(ごじつたん)がつく。三成は、村々に土俵作りを命じ、それを、雨が上がり、水が引いた決壊箇所に運ばせ、土俵1表と米俵1表とを交換したというのである。米は水にぬれてはいるが、乾燥させればふつうの米として食べられるので、百姓たちは喜んで土俵作りと、土俵と米俵の交換に従事したという。
元亀(げんき)元年(1570)4月20日、織田信長は2万の大軍を率いて京都を出陣し、越前に向かった。再三の呼び出しに、越前の朝倉義景が応じなかったからである。その頃、義景は既に足利義昭と気脈を通じていた。義昭は信長のおかげで第15代将軍にはついたものの、実権は信長が握り、不満を親しい大名にもらしはじめていたのである。
織田軍が越前に攻め入り、木の芽峠を越えようとしたまさにそのとき、織田の妹お市が嫁ぎ、信長の同盟軍だった近江小谷城主の浅井(あざい)長政の謀反が信長に伝えられた。信長は、はじめ、『信長公記』によると、「虚説たるべし」といって本気にはしなかったという。当時、嘘の情報を流して敵を攪乱(かくらん)するのが戦法としてよくみられたからである。しかし、第二報、第三報が入るに従い、長政の謀反は確実だということが明らかになった。
木の芽峠を越えれば、朝倉義景の本拠一乗谷はすぐそこである。このような場合、ふつうの武将なら、背後から攻めてくるであろう浅井軍に備えを残し、本隊はそのまま一乗谷に攻め込んでいったと思われる。
ところが、このとき、信長は全軍に撤退を命じているのである。リスクマネジメントを考え、それ以上の攻撃続行は危険と判断したことになる。負け戦ならまだしも、勝ち戦のとき、撤退の判断を下すのは容易でないと思われる。
また、戦国武将の当時の一般的な考えとして、「負け候へば、自害におよび候こと、侍の本用に候」などといって、負けたならば、そこで潔く腹を切るのが本当の侍だという意識があり、負けて逃げもどるのは恥だとの観念もあり、信長でなければ、そこに踏みとどまり、前面の朝倉軍と、背後の浅井軍とに挟まれて戦いになる可能性があった。
信長は、金ヶ崎城に秀吉・明智光秀、それに池田隆正の3人を残し、琵琶湖の西岸、朽木谷(くつきだに)経由で京都に逃げもどっている。信長に従う者はわずかに十数騎だけだったという。
ちなみに、この時、殿(しんがり)として金ヶ崎城に残された秀吉らが朝倉軍の追撃を止め、「藤吉郎金ヶ崎の退き口」といわれ、秀吉の武功を物語るものとなっているが、実際は明智光秀も働いていたのである。その後、池田隆正は鳴かず飛ばずで終え、光秀は山崎の戦いのあと殺されているので、本当は3人であげた手柄なのに、秀吉の一人占めという形で語り伝えられることになった。
ふつうの武将の感覚だと、2万の大軍で威風堂々と出陣しながら、わずか十数騎に守られ、ボロボロになって逃げ帰ってくる姿はみせたくないと考えるところであろう。信長は、撤退を1つのリセットと考えていたものと思われる。「また、一からやり直せばいい」ととらえたのである。失敗をズルズルあとまで引くのではなく、人生、やり直しがきくということを、信長は今日の我々に教えてくれているのではないだろうか。
|石田三成の瞬時の好判断
神沢貞幹(かんざわさだもと)の『翁草』および岡谷繁実の『名将言行録』に、石田三成に関する興味深いエピソードが載っている。何年何月のことかの記載はないが、大雨で淀川の水が増水し、河内堤が切れそうになったことがあった。
大阪の町は、大和川や平野川が淀川に注ぎ込む位置にできていて、大阪城は二重、三重の水堀によって囲まれ、「八百八橋」(はっぴゃくやばし)といったいい方もあるように、水の都であった。
河内堤が切れれば、町はおろか、秀吉のいる大阪城まで水浸しになってしまう恐れがあった。このときは、秀吉自身も雨をついて京橋口まで出て様子を見守っており、諸大名も家臣たちを動員し、土俵を積んで何とか堤防の決壊だけは防ごうと必死になっていた。
ところが、この時の雨は記録破りの大雨だったらしく、淀川の水かさはみるみるふえていき、決壊の危険がさしせまっていた。それを防ぐためにはどんどん土俵を積んでいかなければならないわけであるが、大雨を予想して、事前に大量の土俵を用意していたわけではないので、対策を協議しても名案が出ることもなく、秀吉以下、水かさがふえるのを、ただ、手をこまねいてみているしかなかったのである。
五奉行の1人、石田三成も現場に出て成り行きを見守っていたが、ただ1基、決壊しそうな場所を検分し、取って返し、当時、京橋口にあった大阪城の米蔵の扉を開かせ、中に積まれていた数千俵の米俵を決壊箇所に運ばせたのである。つまり、三成は、土俵の代わりに米俵を積んで決壊をくいとめようとし、みごと成功させている。
これは、秀吉も考えつかなかった好判断で、三成のリスクマネジメントが好結果をもたらしたことになる。
このエピソードからいくつかのことが浮き彫りになってくる。1つは、三成の「計数の才」である。堤防が決壊し、大阪中が水浸しになったときのリスクの大きさと、米俵数千俵の損失額とを瞬時に計算し、米俵を犠牲にした方が損失が少ないと判断したものと思われる。
もう1つは、三成が秀吉の許可を求めることなく、独断で米俵を運ばせていた点で、声は、三成が秀吉の信頼を得ていたからこそできた芸当だったといえる。
なお、この話には後日譚(ごじつたん)がつく。三成は、村々に土俵作りを命じ、それを、雨が上がり、水が引いた決壊箇所に運ばせ、土俵1表と米俵1表とを交換したというのである。米は水にぬれてはいるが、乾燥させればふつうの米として食べられるので、百姓たちは喜んで土俵作りと、土俵と米俵の交換に従事したという。
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2013年04月19日
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
|武田信玄の名言から
甲斐の戦国大名武田信玄の一代記といってよい『甲陽軍鑑』という本がある。信玄の重臣の一人だった高坂弾正(こうさかだんじょう)昌信が、信玄死後、そのほとんどを書き、そのあと、昌信の甥 春日惣次郎らが書きつぎ、それを江戸時代のはじめ、軍学者の小幡勘兵衛景憲(かげのり)がまとめたといわれる本である。
もっとも、この『甲陽軍鑑』は、40年ほど前までは偽書扱いをされていた。というのは、その頃までは架空の軍師だった山本勘助のことが、かなり書き込まれていたからであった。
ところが、その後、山本勘助が、たしかな文書の出現によって実在が証明され、偽書というレッテルを貼られていた『甲陽軍鑑』の見直しが進められた結果、今日では、「史実と合致しない部分もあるが、使える部分も多い」といったとらえ方となっている。
その『甲陽軍鑑』に、日常、信玄がしゃべっていた言葉が随所に筆録されており、よく知られるものとして、七分勝ちといったものがある。これは、「ゆミやの儀、勝負の事、十分を六分七分のかちハ、十分のかちなり」というもので、合戦では、六部か七部くらいの勝ち方が理想的だといったくだりである。その理由について、信玄は、「八分のかちハあやうし、九分十分のかちはみたま大まけの下つくり也」といっている。
完勝してしまうと、奢り(おごり)の気持ちや、油断が生じ、つぎの戦いで負けてしまうので、七分くらいの勝ちを理想的な勝ち方と考えていたことがわかる。
私が『甲陽軍鑑』に採録されている信玄のいくつかの名言の中で、一番注目しているのは次の言葉である。原文は、
国持つ大将、人をつかふに、ひとむきの侍をすき候て、其そうきやうする者共、おなじぎやう儀さはうの人計、念比(ねんごろ)してめしつかふ事、信玄は大きにきらふたり。
とある。漢字交じりで現代風に書けば、「国持大将、人を使うに、一向きの侍を好き候て、その崇敬する者共、同じ行儀・作法の人ばかり、念比して召し使う事、信玄は大いに嫌いたり」となる。
「一向きの侍」とは、自分と同じ方向を向いている家臣のことで、自分のことを崇敬し、しかも同じような行儀・作法をする者を自分のまわりに置きたくないという意味である。いま風ないい方をすれば、「イエスマンばかりでまわりを固めたくない」といったところであろうか。
上に立つと、下からあまり苦言をいわれたくないと考えがちで、どうしても、反対意見をいう者を遠ざけてしまいがちである。信玄は、寵臣(ちょうしん)に取りかこまれた大名が没落していったことをよく知っていたのであろう。諫言(かんげん)がいえる、すなわち、自分を諌(いさ)めてくれる家臣を側に置くよう心がけていたのである。
|補佐役の重要性を物語る晩年の秀吉
諫言がいえる家臣となると、どうしてもある程度限られてくる。下っ端の家臣では、立場上、諫言などできない。いえるのは重臣クラス。しかもそのトップの方で、ナンバーツーとかナンバースリー、すなわち補佐役ということになる。つまり、諫言がいえる補佐役がいるかいないかが、戦国大名家の存亡に大きく関係していたといってよい。
そこで思いおこされるのが豊臣秀吉である。秀吉には、二人の軍師、「二兵衛」などといわれる黒田官兵衛孝高(よしたか)(如水)と竹中半兵衛重治がいた。竹中半兵衛の方は、早くに死んでしまい、また、伝説的な話が多いが、黒田官兵衛は文句なく秀吉の補佐役であった。
そしてもう一人、秀吉には補佐役がいた。弟の秀長である。やや極端ないい方をすれば、秀吉はこの黒田官兵衛と弟秀長という二人の補佐役がいたおかげで天下を取れたといってもいいくらいであった。
秀吉はこの二人だけでなく、妻のおねの意見にも耳を傾けていたことが知られている。秀吉がはじめて長浜城の城主になったとき、早く城下町を作りたいと考え、「長浜城下で商売をする者には税を取らない」とお触れを出した。その効果は抜群で、またたく間に城下町ができた。すると、秀吉は、「これから税を取る」と方向転換しそうになったのである。
それを知った妻おねが横槍を入れた。「それでは商人たちをだましたことになりませんか」という。まさに正論で、秀吉もそれ以上のゴリ押しはしなかったのである。
秀吉が黒田官兵衛や秀長、さらに妻おねの諫言を受けいれている間はよかった。ところが天下を取ったあたりから、秀吉は聞く耳をもたなくなったのである。一つは、黒田官兵衛が遠ざけられたこともあるが、もう一つ、決定的だったのは、弟秀長の死である。
秀長は天正19年(1591年)1月22日に亡くなった。病死である。そのとたん、秀吉の暴走がはじまる。私は、秀吉晩年の不祥事とか暗黒事件といっているが、それまでの秀吉では考えられないことが次からつぎへおこるのである。
まず、秀長の死の直後、茶頭(さとう)でもあり、腹心でもあった千利休を切腹させている。そして、無謀な朝鮮出兵をはじめ、さらに、一度は養子に迎え、関白まで譲った甥の秀次を高野山に追って切腹させ、その正室、側室、子供、侍女まで全部で39人、京都の三条河原に引きだし、虐殺といってよい殺し方をしているのである。
これは、単に秀吉が老人になって耄碌(もうろく)したというレベルの問題ではない。ブレーキ役でもあった助手席に座っていた弟秀長の死で、運転手秀吉の暴走がはじまったのである。補佐役の重要性を極端に示す事例ではないかと思われる。
甲斐の戦国大名武田信玄の一代記といってよい『甲陽軍鑑』という本がある。信玄の重臣の一人だった高坂弾正(こうさかだんじょう)昌信が、信玄死後、そのほとんどを書き、そのあと、昌信の甥 春日惣次郎らが書きつぎ、それを江戸時代のはじめ、軍学者の小幡勘兵衛景憲(かげのり)がまとめたといわれる本である。
もっとも、この『甲陽軍鑑』は、40年ほど前までは偽書扱いをされていた。というのは、その頃までは架空の軍師だった山本勘助のことが、かなり書き込まれていたからであった。
ところが、その後、山本勘助が、たしかな文書の出現によって実在が証明され、偽書というレッテルを貼られていた『甲陽軍鑑』の見直しが進められた結果、今日では、「史実と合致しない部分もあるが、使える部分も多い」といったとらえ方となっている。
その『甲陽軍鑑』に、日常、信玄がしゃべっていた言葉が随所に筆録されており、よく知られるものとして、七分勝ちといったものがある。これは、「ゆミやの儀、勝負の事、十分を六分七分のかちハ、十分のかちなり」というもので、合戦では、六部か七部くらいの勝ち方が理想的だといったくだりである。その理由について、信玄は、「八分のかちハあやうし、九分十分のかちはみたま大まけの下つくり也」といっている。
完勝してしまうと、奢り(おごり)の気持ちや、油断が生じ、つぎの戦いで負けてしまうので、七分くらいの勝ちを理想的な勝ち方と考えていたことがわかる。
私が『甲陽軍鑑』に採録されている信玄のいくつかの名言の中で、一番注目しているのは次の言葉である。原文は、
国持つ大将、人をつかふに、ひとむきの侍をすき候て、其そうきやうする者共、おなじぎやう儀さはうの人計、念比(ねんごろ)してめしつかふ事、信玄は大きにきらふたり。
とある。漢字交じりで現代風に書けば、「国持大将、人を使うに、一向きの侍を好き候て、その崇敬する者共、同じ行儀・作法の人ばかり、念比して召し使う事、信玄は大いに嫌いたり」となる。
「一向きの侍」とは、自分と同じ方向を向いている家臣のことで、自分のことを崇敬し、しかも同じような行儀・作法をする者を自分のまわりに置きたくないという意味である。いま風ないい方をすれば、「イエスマンばかりでまわりを固めたくない」といったところであろうか。
上に立つと、下からあまり苦言をいわれたくないと考えがちで、どうしても、反対意見をいう者を遠ざけてしまいがちである。信玄は、寵臣(ちょうしん)に取りかこまれた大名が没落していったことをよく知っていたのであろう。諫言(かんげん)がいえる、すなわち、自分を諌(いさ)めてくれる家臣を側に置くよう心がけていたのである。
|補佐役の重要性を物語る晩年の秀吉
諫言がいえる家臣となると、どうしてもある程度限られてくる。下っ端の家臣では、立場上、諫言などできない。いえるのは重臣クラス。しかもそのトップの方で、ナンバーツーとかナンバースリー、すなわち補佐役ということになる。つまり、諫言がいえる補佐役がいるかいないかが、戦国大名家の存亡に大きく関係していたといってよい。
そこで思いおこされるのが豊臣秀吉である。秀吉には、二人の軍師、「二兵衛」などといわれる黒田官兵衛孝高(よしたか)(如水)と竹中半兵衛重治がいた。竹中半兵衛の方は、早くに死んでしまい、また、伝説的な話が多いが、黒田官兵衛は文句なく秀吉の補佐役であった。
そしてもう一人、秀吉には補佐役がいた。弟の秀長である。やや極端ないい方をすれば、秀吉はこの黒田官兵衛と弟秀長という二人の補佐役がいたおかげで天下を取れたといってもいいくらいであった。
秀吉はこの二人だけでなく、妻のおねの意見にも耳を傾けていたことが知られている。秀吉がはじめて長浜城の城主になったとき、早く城下町を作りたいと考え、「長浜城下で商売をする者には税を取らない」とお触れを出した。その効果は抜群で、またたく間に城下町ができた。すると、秀吉は、「これから税を取る」と方向転換しそうになったのである。
それを知った妻おねが横槍を入れた。「それでは商人たちをだましたことになりませんか」という。まさに正論で、秀吉もそれ以上のゴリ押しはしなかったのである。
秀吉が黒田官兵衛や秀長、さらに妻おねの諫言を受けいれている間はよかった。ところが天下を取ったあたりから、秀吉は聞く耳をもたなくなったのである。一つは、黒田官兵衛が遠ざけられたこともあるが、もう一つ、決定的だったのは、弟秀長の死である。
秀長は天正19年(1591年)1月22日に亡くなった。病死である。そのとたん、秀吉の暴走がはじまる。私は、秀吉晩年の不祥事とか暗黒事件といっているが、それまでの秀吉では考えられないことが次からつぎへおこるのである。
まず、秀長の死の直後、茶頭(さとう)でもあり、腹心でもあった千利休を切腹させている。そして、無謀な朝鮮出兵をはじめ、さらに、一度は養子に迎え、関白まで譲った甥の秀次を高野山に追って切腹させ、その正室、側室、子供、侍女まで全部で39人、京都の三条河原に引きだし、虐殺といってよい殺し方をしているのである。
これは、単に秀吉が老人になって耄碌(もうろく)したというレベルの問題ではない。ブレーキ役でもあった助手席に座っていた弟秀長の死で、運転手秀吉の暴走がはじまったのである。補佐役の重要性を極端に示す事例ではないかと思われる。
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2013年03月22日
第1回 発想力 ~織田信長と豊臣秀吉の場合~
|軍艦に鎧を着せた信長
織田信長が石山本願寺の顕如と戦った時、織田軍は本願寺の北・東・南の三方を包囲したが、西だけは大阪湾があいていた。そこをねらって、本願寺と手を結んでいた毛利輝元が、瀬戸内水軍を使って兵糧を搬入していたのである。
信長も、伊勢・志摩の水軍でそれを防ごうとしたわけであるが、水軍の力は、瀬戸内水軍の方がはるかに上で、信長側はいつも負けていた。負けるパターンは決まっていて、瀬戸内水軍が火矢を射込み、また、焙烙(ほうろく)といって、陶磁器の器に油のしみこんだ布を詰め、それに火をつけて投げ込んでくるため、船に火がつき、燃えて沈没する形だった。
そうした状況が何度か続いたところで、信長も我慢の限界に達したのだろう。「燃えない船を造れ」と、伊勢・志摩水軍の大将だった九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じている。しかし、「燃えない船を造れ」といわれても、命じられた九鬼嘉隆は困惑したと思われる。それでも、伊勢大湊で造船を開始している。
このとき、信長自身のアイデアなのか、命じられた九鬼嘉隆のアイデアだったのか書かれたものがないのでわからないが、木造の船体に薄い鉄板を張った船ができあがった。鉄張り軍艦である。
当時、武士が身につける甲冑(かっちゅう)はあったし、主要部分は薄い鉄板でできている。また、大将クラスの馬にも馬鎧(うまよろい)といって、鎖のようなものをつけるということがあった。おそらく、発想としては「船にも鎧を着せたらどうだろうか」といったところではないかと思われるが、このアイデアは秀逸だった。とにかく、造船先進国のポルトガル・イスパニア・イギリス・オランダでも鉄張り軍艦はまだなかったのである。
鉄張り軍艦7隻が天正6年(1578)6月に完成すると、信長は待っていたかのようにその船を大阪湾に廻させ、ついに、7月16日、木津川河口で瀬戸内水軍と戦い、これを破り、本願寺への兵糧遮断に成功するのである。『多聞院日記』によると、新造艦は、横7間(約12.6m)、縦12~13間(22m)で、「鉄ノ船也」と書かれている。
信長のすごいところは、この鉄張り軍艦の例からも明らかなように、問題点は何かをつきとめ、その解決方法を考えている点である。そこには、常識にとらわれない発想力の豊かさというものがあったわけで、信長の後継者である豊臣秀吉もそれを受けついでいた。そこで、次に、秀吉の発想力の豊かさを示す事例を紹介しておきたい。
|秀吉のダイレクトメール作戦
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれたとき、秀吉は備中高松城の水攻めの最中だった。信長の死を知った秀吉は、信長の死を隠したまま毛利輝元側との講和交渉をまとめ、いわゆる「中国大返し」で兵を畿内にもどし、6月13日、山崎の戦いで明智光秀を倒すことに成功する。
注目されるのは、このあと、秀吉は右筆(ゆうひつ)に命じ、山崎の戦いの顛末(てんまつ)を本に書かせているのである。これが『惟任(これとう)退治記』である。惟任というのは、光秀が信長からもらった九州の名族の姓であった。
そこには、具体的な戦闘経過だけではなく、なぜ、自分が光秀と戦うことになったのかなど、自己の正当性を広く訴える内容も含まれていた。詳しい状況や事情を知らない信長生前の元同僚や京都の公家たちに、「信長の敵(かたき)討ちをしたのはこの秀吉だ」ということを印象づけるねらいがあった。つまり、明らかに自己宣伝の本であった。
秀吉が明智光秀を討ったといっても、その時点では、信長家臣団の中でのランクは上にまだ柴田勝家や丹波長秀がいる形だった。秀吉にとって、光秀を破った功績をアピールする必要があったのである。
6月27日に清洲城で開かれた清洲会議で、信長の嫡男信忠の遺児である三法師の擁立に成功した秀吉は、いよいよ宿老筆頭格の柴田勝家との対立を迎える。これが、翌11年(1583)4月21日に近江の北、琵琶湖と余呉湖にはさまれた地域でくりひろげられた賤ヶ岳の戦いである。
この戦いは、福島正則・加藤清正ら「賤ヶ岳七本槍」の活躍で知られているが、勝敗を決めたのは、前田利家の戦線離脱であった。柴田軍の一員として布陣していた利家の撤退によって、柴田軍総退却という形で終わっている。
そのあと、逃げる勝家を追って居城越前北庄城攻めとなるわけであるが、城を落とすと、先の山崎の戦いのときと同じように、秀吉は一連の戦いの顛末を1冊の本にまとめさせている。それが、『柴田合戦記』である。『柴田退治記』という書名になっているものもある。勝家と再婚したお市の方と勝家が自害していくシーンも詳しく書かれているが、それは、勝家が、自分たちの死に際を1人の老女に見させ、秀吉に伝えるよう命じていたからであった。
そして注目されるのは、この賤ヶ岳の戦いのあと、秀吉はもっと大々的な広報活動を展開していたのである。何と、秀吉は、それまで一度も手紙のやりとりをしたことのない遠くの大名に、一方的に戦勝報告を送りつけていたのである。私はこれを「秀吉のダイレクトメール作戦」と名付けている。
これを受け取った遠方の大名の多くは、1年前まで信長の一家臣にすぎなかった秀吉が信長の後継者に名乗りを上げたことにびっくりし、文字通り、戦わずに兜を脱いでしまった。戦わずに勝つという、秀吉にとって最も理想的な展開となっていったのである。
織田信長が石山本願寺の顕如と戦った時、織田軍は本願寺の北・東・南の三方を包囲したが、西だけは大阪湾があいていた。そこをねらって、本願寺と手を結んでいた毛利輝元が、瀬戸内水軍を使って兵糧を搬入していたのである。
信長も、伊勢・志摩の水軍でそれを防ごうとしたわけであるが、水軍の力は、瀬戸内水軍の方がはるかに上で、信長側はいつも負けていた。負けるパターンは決まっていて、瀬戸内水軍が火矢を射込み、また、焙烙(ほうろく)といって、陶磁器の器に油のしみこんだ布を詰め、それに火をつけて投げ込んでくるため、船に火がつき、燃えて沈没する形だった。
そうした状況が何度か続いたところで、信長も我慢の限界に達したのだろう。「燃えない船を造れ」と、伊勢・志摩水軍の大将だった九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じている。しかし、「燃えない船を造れ」といわれても、命じられた九鬼嘉隆は困惑したと思われる。それでも、伊勢大湊で造船を開始している。
このとき、信長自身のアイデアなのか、命じられた九鬼嘉隆のアイデアだったのか書かれたものがないのでわからないが、木造の船体に薄い鉄板を張った船ができあがった。鉄張り軍艦である。
当時、武士が身につける甲冑(かっちゅう)はあったし、主要部分は薄い鉄板でできている。また、大将クラスの馬にも馬鎧(うまよろい)といって、鎖のようなものをつけるということがあった。おそらく、発想としては「船にも鎧を着せたらどうだろうか」といったところではないかと思われるが、このアイデアは秀逸だった。とにかく、造船先進国のポルトガル・イスパニア・イギリス・オランダでも鉄張り軍艦はまだなかったのである。
鉄張り軍艦7隻が天正6年(1578)6月に完成すると、信長は待っていたかのようにその船を大阪湾に廻させ、ついに、7月16日、木津川河口で瀬戸内水軍と戦い、これを破り、本願寺への兵糧遮断に成功するのである。『多聞院日記』によると、新造艦は、横7間(約12.6m)、縦12~13間(22m)で、「鉄ノ船也」と書かれている。
信長のすごいところは、この鉄張り軍艦の例からも明らかなように、問題点は何かをつきとめ、その解決方法を考えている点である。そこには、常識にとらわれない発想力の豊かさというものがあったわけで、信長の後継者である豊臣秀吉もそれを受けついでいた。そこで、次に、秀吉の発想力の豊かさを示す事例を紹介しておきたい。
|秀吉のダイレクトメール作戦
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれたとき、秀吉は備中高松城の水攻めの最中だった。信長の死を知った秀吉は、信長の死を隠したまま毛利輝元側との講和交渉をまとめ、いわゆる「中国大返し」で兵を畿内にもどし、6月13日、山崎の戦いで明智光秀を倒すことに成功する。
注目されるのは、このあと、秀吉は右筆(ゆうひつ)に命じ、山崎の戦いの顛末(てんまつ)を本に書かせているのである。これが『惟任(これとう)退治記』である。惟任というのは、光秀が信長からもらった九州の名族の姓であった。
そこには、具体的な戦闘経過だけではなく、なぜ、自分が光秀と戦うことになったのかなど、自己の正当性を広く訴える内容も含まれていた。詳しい状況や事情を知らない信長生前の元同僚や京都の公家たちに、「信長の敵(かたき)討ちをしたのはこの秀吉だ」ということを印象づけるねらいがあった。つまり、明らかに自己宣伝の本であった。
秀吉が明智光秀を討ったといっても、その時点では、信長家臣団の中でのランクは上にまだ柴田勝家や丹波長秀がいる形だった。秀吉にとって、光秀を破った功績をアピールする必要があったのである。
6月27日に清洲城で開かれた清洲会議で、信長の嫡男信忠の遺児である三法師の擁立に成功した秀吉は、いよいよ宿老筆頭格の柴田勝家との対立を迎える。これが、翌11年(1583)4月21日に近江の北、琵琶湖と余呉湖にはさまれた地域でくりひろげられた賤ヶ岳の戦いである。
この戦いは、福島正則・加藤清正ら「賤ヶ岳七本槍」の活躍で知られているが、勝敗を決めたのは、前田利家の戦線離脱であった。柴田軍の一員として布陣していた利家の撤退によって、柴田軍総退却という形で終わっている。
そのあと、逃げる勝家を追って居城越前北庄城攻めとなるわけであるが、城を落とすと、先の山崎の戦いのときと同じように、秀吉は一連の戦いの顛末を1冊の本にまとめさせている。それが、『柴田合戦記』である。『柴田退治記』という書名になっているものもある。勝家と再婚したお市の方と勝家が自害していくシーンも詳しく書かれているが、それは、勝家が、自分たちの死に際を1人の老女に見させ、秀吉に伝えるよう命じていたからであった。
そして注目されるのは、この賤ヶ岳の戦いのあと、秀吉はもっと大々的な広報活動を展開していたのである。何と、秀吉は、それまで一度も手紙のやりとりをしたことのない遠くの大名に、一方的に戦勝報告を送りつけていたのである。私はこれを「秀吉のダイレクトメール作戦」と名付けている。
これを受け取った遠方の大名の多くは、1年前まで信長の一家臣にすぎなかった秀吉が信長の後継者に名乗りを上げたことにびっくりし、文字通り、戦わずに兜を脱いでしまった。戦わずに勝つという、秀吉にとって最も理想的な展開となっていったのである。
Posted by 日刊いーしず at 12:00