2013年06月21日
第4回 織田信長と黒田官兵衛の情報収集力
|武功より情報を評価した織田信長
永禄3年(1560)5月19日の尾張桶狭間の戦いのとき、今川義元に最初に槍をつけたのは、織田信長の家臣服部小平太である。ところが、義元も必死の抵抗をしたので、首を取るまでにはいかなかった。二番手に飛び込んだ、やはり信長家臣の毛利新介が義元の首を取っている。どちらも一番槍の功名、一番首の功名というわけである。
このような場合、一番手柄をどちらにするかは判断が難しいが、ふつうは、2人のどちらかが一番手柄として賞されることになる。
桶狭間の戦いの論功行賞は戦いの翌日、5月20日に行われた。清洲城に集まった家臣たちは、皆、前日の戦いの模様は知っているので、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかだろうと思っていた。ところが、信長が一番に名前を呼んだのは簗田(やなだ)政綱という武士であった。前日の戦いで、簗田政綱が目立った大手柄を立てていたならまだしも、活躍ぶりが目につかなかったので、居並ぶ信長家臣たちは一様に「何で」という声をあげたのではないかと思われる。
この簗田政綱は、沓掛(くつかけ)というところに住む士豪、すなわち地侍の1人だった。5月19日、近くの沓掛城を出陣していく今川義元の動静を信長に情報として届けていたのである。その中身は3つあったと思われる。1つは、今川軍は2万5,000だが、2万は別な方向に進み、義元本隊は5,000だということ。2つ目は、進んでいる方向から、目的地は大高城だと思われ、沓掛城と大高城の中間地点の桶狭間で昼食休憩を取るのではないかということ。
そして3つ目が決定的な情報だった。この日、義元は馬ではなく輿に乗って出陣しているというのである。
信長は、この簗田政綱からの情報をもとに、お昼ごろ、昼食休憩を取っている桶狭間山に奇襲をかける作戦を考え、「輿のあるところを中心に攻撃せよ」という命令を出したのである。つまり、信長としては、こうした作戦に従って働き、義元に槍をつけた服部小平太、義元の首を取った毛利新介武功よりも、作戦そのものを考え出す情報を届けてきた簗田政綱の方が、手柄は上であると見たのである。
それまで、武士の論功行賞評価基準は武功だけだったが、この桶狭間の戦い後の信長による論功行賞で、はじめて情報が評価され、武功の上に位置づけられたのである。
武功以外も評価する信長だったからこそ、秀吉の働きも認め、武功派の代表格といってよい前田利家より、秀吉の方が早く出世できたのである。秀吉がもし信長ではない戦国武将に仕えていれば、秀吉は一生、足軽で終わったかもしれない。
|黒田官兵衛の情報収集活動
さて、有効な情報を素早く集め、それを効果的に使ったのが黒田官兵衛孝高(如水)である。一例として、天正13年(1585)の豊臣軍による四国長宗我部攻めについてみておきたい。
四国攻めにあたり、当初は秀吉自身が総大将になるつもりでいたが、病気になったので、代わりに弟秀長が総大将となり、甥の秀次が副将となった。秀長率いる3万の軍勢が堺から淡路島の洲本に渡り、秀次率いるやはり3万の軍勢が明石から洲本の福良に渡り、合わせて6万の大軍が阿波の土佐泊に上陸した。
こうした動きは長宗我部元親側もあらかじめ読んでいて、軍勢の主力を阿波に投入し、また、阿波の主要な城の強化を行い、戦闘態勢を整えていたのである。
黒田官兵衛は、そうした長宗我部側の防衛態勢に関する情報収集をし、敵の裏をかく作戦をたてている。具体的にみると、官兵衛は、蜂須賀正勝・宇喜多将長宗我部掃部頭も元親の重臣として人望もあり、彼を中心にして城兵が結束を固めていることがわかった。結論として官兵衛は、力攻めでは容易に落とせないだろうということになった。
そこで官兵衛は、敵城に対し、威嚇をくりかえし、最後に「口愛」(あつかい=仲裁)を入れて会場に持ち込む策を取ることにし、まず、付近から材木を集めさせ、城中の櫓(やぐら)よりも高く組み上げ、城を見おろす場所を作らせ、鉄砲を撃ちかけ、しかも、1日に3度、鬨(とき)の声をあげさせたという。
これには、さすが、勇猛なことで知られる長宗我部軍の戦意が萎え、次第に厭戦(えんせん)気分が広がり始めた。そうした状況も官兵衛は見逃さなかった。頃あいよしとみた官兵衛が「口愛」(まかない)を入れ、開城勧告をすると、敵はあっさりとそれに応じてきたのである。情報を収集し、それを効果的に使った官兵衛だからこそつかみとった成果といえる。この岩倉城開城で、次第にほかの城も降伏する形となった。
永禄3年(1560)5月19日の尾張桶狭間の戦いのとき、今川義元に最初に槍をつけたのは、織田信長の家臣服部小平太である。ところが、義元も必死の抵抗をしたので、首を取るまでにはいかなかった。二番手に飛び込んだ、やはり信長家臣の毛利新介が義元の首を取っている。どちらも一番槍の功名、一番首の功名というわけである。
このような場合、一番手柄をどちらにするかは判断が難しいが、ふつうは、2人のどちらかが一番手柄として賞されることになる。
桶狭間の戦いの論功行賞は戦いの翌日、5月20日に行われた。清洲城に集まった家臣たちは、皆、前日の戦いの模様は知っているので、一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかだろうと思っていた。ところが、信長が一番に名前を呼んだのは簗田(やなだ)政綱という武士であった。前日の戦いで、簗田政綱が目立った大手柄を立てていたならまだしも、活躍ぶりが目につかなかったので、居並ぶ信長家臣たちは一様に「何で」という声をあげたのではないかと思われる。
この簗田政綱は、沓掛(くつかけ)というところに住む士豪、すなわち地侍の1人だった。5月19日、近くの沓掛城を出陣していく今川義元の動静を信長に情報として届けていたのである。その中身は3つあったと思われる。1つは、今川軍は2万5,000だが、2万は別な方向に進み、義元本隊は5,000だということ。2つ目は、進んでいる方向から、目的地は大高城だと思われ、沓掛城と大高城の中間地点の桶狭間で昼食休憩を取るのではないかということ。
そして3つ目が決定的な情報だった。この日、義元は馬ではなく輿に乗って出陣しているというのである。
信長は、この簗田政綱からの情報をもとに、お昼ごろ、昼食休憩を取っている桶狭間山に奇襲をかける作戦を考え、「輿のあるところを中心に攻撃せよ」という命令を出したのである。つまり、信長としては、こうした作戦に従って働き、義元に槍をつけた服部小平太、義元の首を取った毛利新介武功よりも、作戦そのものを考え出す情報を届けてきた簗田政綱の方が、手柄は上であると見たのである。
それまで、武士の論功行賞評価基準は武功だけだったが、この桶狭間の戦い後の信長による論功行賞で、はじめて情報が評価され、武功の上に位置づけられたのである。
武功以外も評価する信長だったからこそ、秀吉の働きも認め、武功派の代表格といってよい前田利家より、秀吉の方が早く出世できたのである。秀吉がもし信長ではない戦国武将に仕えていれば、秀吉は一生、足軽で終わったかもしれない。
|黒田官兵衛の情報収集活動
さて、有効な情報を素早く集め、それを効果的に使ったのが黒田官兵衛孝高(如水)である。一例として、天正13年(1585)の豊臣軍による四国長宗我部攻めについてみておきたい。
四国攻めにあたり、当初は秀吉自身が総大将になるつもりでいたが、病気になったので、代わりに弟秀長が総大将となり、甥の秀次が副将となった。秀長率いる3万の軍勢が堺から淡路島の洲本に渡り、秀次率いるやはり3万の軍勢が明石から洲本の福良に渡り、合わせて6万の大軍が阿波の土佐泊に上陸した。
こうした動きは長宗我部元親側もあらかじめ読んでいて、軍勢の主力を阿波に投入し、また、阿波の主要な城の強化を行い、戦闘態勢を整えていたのである。
黒田官兵衛は、そうした長宗我部側の防衛態勢に関する情報収集をし、敵の裏をかく作戦をたてている。具体的にみると、官兵衛は、蜂須賀正勝・宇喜多将長宗我部掃部頭も元親の重臣として人望もあり、彼を中心にして城兵が結束を固めていることがわかった。結論として官兵衛は、力攻めでは容易に落とせないだろうということになった。
そこで官兵衛は、敵城に対し、威嚇をくりかえし、最後に「口愛」(あつかい=仲裁)を入れて会場に持ち込む策を取ることにし、まず、付近から材木を集めさせ、城中の櫓(やぐら)よりも高く組み上げ、城を見おろす場所を作らせ、鉄砲を撃ちかけ、しかも、1日に3度、鬨(とき)の声をあげさせたという。
これには、さすが、勇猛なことで知られる長宗我部軍の戦意が萎え、次第に厭戦(えんせん)気分が広がり始めた。そうした状況も官兵衛は見逃さなかった。頃あいよしとみた官兵衛が「口愛」(まかない)を入れ、開城勧告をすると、敵はあっさりとそれに応じてきたのである。情報を収集し、それを効果的に使った官兵衛だからこそつかみとった成果といえる。この岩倉城開城で、次第にほかの城も降伏する形となった。
第8回 戦国武将たちの先見性と決断力
第7回 武将に学ぶ、「人脈作り」のコツ
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
第7回 武将に学ぶ、「人脈作り」のコツ
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
Posted by 日刊いーしず at 12:00