2013年09月20日
第7回 武将に学ぶ、「人脈作り」のコツ
織田信長のホスピタリティマインド
信長といえば、その残忍さを物語るエピソードがいくつも伝えられており、冷淡な性格だったという印象がある。ところが、その反面で、ときに人間味あふれる信長の姿をみることもできる。信長の人脈作りを支えたホスピタリティマインド、すなわち、おもてなしの心をみておきたい。1つは、ヨーロッパからきたイエズス会宣教師との交流である。
信長がキリスト教に理解を示し、布教を許可したことはよく知られている。京都に教会(南蛮寺)を建てさせ、安土にはセミナリヨ(神学校)まで建てさせ、ときおり、信長自身、セミナリヨを訪れ、オルガンの音色を楽しんでいる。
元亀3年(1572)、布教長のカブラルが、フロイスをともなって岐阜城の信長を訪ねたとき、「肉を食べるのか」と聞かれたカブラルが、「キリスト教では肉を食べるのを許している」と答えたところ、信長は自分が大事に飼っていた鳥を殺してカブラルらの食膳に供したことが知られている。しかも、自らお膳を運んだという。
そしてもう1つが有名な「安土饗応膳(きょうおうぜん)」である。天正10年(1582)3月、武田氏を滅ぼした信長は、甲斐から徳川家康の案内で駿河を経由して安土城に凱旋(がいせん)しているが、念願の富士遊覧を果たし、家康の接待を受けた。
武田討伐に際し、家康も駿河側から甲斐に攻め入っており、その論功行賞で駿河一国が与えられることになった。家康は、武田氏の一族で重臣だった穴山梅雪をともない、お礼のために安土城の信長を訪ねているが、そのとき、信長が家康・梅雪一行をもてなしたのが「安土饗応膳」というわけである。
5月15日から17日まで3日間にわたっての豪華な接待料理の様子が「天正十年安土御献立」(『続群書類従』所収)という史料に書かれており、このほど、滋賀県立安土城考古博物館と地元の民間観光振興団体「まんなかの会」が共同復元プロジェクトという形で饗応膳の再現に取り組み、私もその一部を試食させてもらったところである。
鯛(たい)・たこ・うるか・鮑(あわび)・鮒(ふな)ずしといった海の幸のオンパレードといったところで、特に、「ほやのひや汁」は印象に残った。まさに、王者の膳といってよいが、信長にとって、この「安土饗応膳」はいかなる意味をもっていたのだろうか。
信長としてみれば、自分と家康の2人を最後まで苦しめた武田勝頼を討った戦勝祝いという意味と、家康を慰労するというねらいがあったと思われるが、もう1つ、同盟強化を意図していたものと考えられる。それも、単なる対等の関係ではなく、信長が主で、家康が従となるための力の誇示も、この豪華な膳には隠されていたようである。
しかし、周知のように、この半月後、信長は明智光秀の謀反によって殺されてしまう。光秀が家康接待役を仰せつかりながら、途中で解任されたことは周知の事実で、そのことが本能寺の変とつながるのか、つながらないのかは、意見が分かれるところとなっている。
フットワークが軽かった石田三成
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのとき、西軍石田三成方に、全国のほぼ半数の大名が集まった。戦い後、取りつぶされた大名が88家におよんだことが、三成の人脈作りのすごさを物語っている。
よく、「何で三成は、負けるとわかっていた戦いに突っこんだのか」などといわれることがあるが、これは結果論で、三成が勝つ可能性はあった。
では、近江佐和山城主としてわずか19万4,000石の三成が、関東で250万石という大勢力をもっていた徳川家康に堂々と戦いを挑むことができたのはどうしてだったのだろうか。もちろん、豊臣政権の五奉行の1人として、秀吉をバックにしていたという強みはあった。しかし、秀吉の死後2年たった時点で全国の半数近くの大名が三成の旗の下に集まったのは、単に三成が「虎の威を借る狐」だったからではない。三成は積極的に人脈作りをしていたのである。
関ヶ原の戦いのとき、家康の意表をついて正面敵中突破を敢行し、薩摩に逃げ帰った島津義弘が三成方についたのは、秀吉による九州攻め後の戦後処理において、義弘が三成の恩恵を受けていたからであった。
具体的には、薩摩における太閤検地に際し、三成本人が薩摩に乗り込み、検地を指導していたのである。検地は、やり方をまちがえると、肥後の検地反対一揆で佐々成政が改易された例があることからも明らかなように、命取りになりかねなかったわけで、義弘としては三成に恩を受けた形であった。
三成の人脈というとき、盟友などといわれた直江兼続との関係は落とせない。直江兼続は上杉景勝の執政だったが、三成とは懇意にしていた。三成と兼続の2人の仲がより密接になったのは、慶長3年(1598)、上杉景勝の越後春日山から会津若松への転封(てんぽう)のときであった。
これは、蒲生氏郷の死後、家康と伊達政宗の間に楔(くさび)を打ちこむ必要から、秀吉の命令によって進められたものであるが、このとき、三成は自ら会津に乗りこみ、兼続と一緒になって国替にともなういくつかの難問を解決していた。実際、このとき、三成と兼続が連名で出した文書も残っており、景勝の転封がスムーズに進んだという印象がある。
このように、三成は、問題が生じた現場に自ら足を運び、問題解決に力を貸していた。このフットワークの軽さが、人脈作りに好結果をもたらしたことはいうまでもない。「人望がなかった」といわれることの多い三成であるが、勝者の書いた勝者の歴史では、どうしても悪者に描かれる傾向がある点は、きちんとみておかなければならない。
信長といえば、その残忍さを物語るエピソードがいくつも伝えられており、冷淡な性格だったという印象がある。ところが、その反面で、ときに人間味あふれる信長の姿をみることもできる。信長の人脈作りを支えたホスピタリティマインド、すなわち、おもてなしの心をみておきたい。1つは、ヨーロッパからきたイエズス会宣教師との交流である。
信長がキリスト教に理解を示し、布教を許可したことはよく知られている。京都に教会(南蛮寺)を建てさせ、安土にはセミナリヨ(神学校)まで建てさせ、ときおり、信長自身、セミナリヨを訪れ、オルガンの音色を楽しんでいる。
元亀3年(1572)、布教長のカブラルが、フロイスをともなって岐阜城の信長を訪ねたとき、「肉を食べるのか」と聞かれたカブラルが、「キリスト教では肉を食べるのを許している」と答えたところ、信長は自分が大事に飼っていた鳥を殺してカブラルらの食膳に供したことが知られている。しかも、自らお膳を運んだという。
そしてもう1つが有名な「安土饗応膳(きょうおうぜん)」である。天正10年(1582)3月、武田氏を滅ぼした信長は、甲斐から徳川家康の案内で駿河を経由して安土城に凱旋(がいせん)しているが、念願の富士遊覧を果たし、家康の接待を受けた。
武田討伐に際し、家康も駿河側から甲斐に攻め入っており、その論功行賞で駿河一国が与えられることになった。家康は、武田氏の一族で重臣だった穴山梅雪をともない、お礼のために安土城の信長を訪ねているが、そのとき、信長が家康・梅雪一行をもてなしたのが「安土饗応膳」というわけである。
5月15日から17日まで3日間にわたっての豪華な接待料理の様子が「天正十年安土御献立」(『続群書類従』所収)という史料に書かれており、このほど、滋賀県立安土城考古博物館と地元の民間観光振興団体「まんなかの会」が共同復元プロジェクトという形で饗応膳の再現に取り組み、私もその一部を試食させてもらったところである。
鯛(たい)・たこ・うるか・鮑(あわび)・鮒(ふな)ずしといった海の幸のオンパレードといったところで、特に、「ほやのひや汁」は印象に残った。まさに、王者の膳といってよいが、信長にとって、この「安土饗応膳」はいかなる意味をもっていたのだろうか。
信長としてみれば、自分と家康の2人を最後まで苦しめた武田勝頼を討った戦勝祝いという意味と、家康を慰労するというねらいがあったと思われるが、もう1つ、同盟強化を意図していたものと考えられる。それも、単なる対等の関係ではなく、信長が主で、家康が従となるための力の誇示も、この豪華な膳には隠されていたようである。
しかし、周知のように、この半月後、信長は明智光秀の謀反によって殺されてしまう。光秀が家康接待役を仰せつかりながら、途中で解任されたことは周知の事実で、そのことが本能寺の変とつながるのか、つながらないのかは、意見が分かれるところとなっている。
フットワークが軽かった石田三成
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのとき、西軍石田三成方に、全国のほぼ半数の大名が集まった。戦い後、取りつぶされた大名が88家におよんだことが、三成の人脈作りのすごさを物語っている。
よく、「何で三成は、負けるとわかっていた戦いに突っこんだのか」などといわれることがあるが、これは結果論で、三成が勝つ可能性はあった。
では、近江佐和山城主としてわずか19万4,000石の三成が、関東で250万石という大勢力をもっていた徳川家康に堂々と戦いを挑むことができたのはどうしてだったのだろうか。もちろん、豊臣政権の五奉行の1人として、秀吉をバックにしていたという強みはあった。しかし、秀吉の死後2年たった時点で全国の半数近くの大名が三成の旗の下に集まったのは、単に三成が「虎の威を借る狐」だったからではない。三成は積極的に人脈作りをしていたのである。
関ヶ原の戦いのとき、家康の意表をついて正面敵中突破を敢行し、薩摩に逃げ帰った島津義弘が三成方についたのは、秀吉による九州攻め後の戦後処理において、義弘が三成の恩恵を受けていたからであった。
具体的には、薩摩における太閤検地に際し、三成本人が薩摩に乗り込み、検地を指導していたのである。検地は、やり方をまちがえると、肥後の検地反対一揆で佐々成政が改易された例があることからも明らかなように、命取りになりかねなかったわけで、義弘としては三成に恩を受けた形であった。
三成の人脈というとき、盟友などといわれた直江兼続との関係は落とせない。直江兼続は上杉景勝の執政だったが、三成とは懇意にしていた。三成と兼続の2人の仲がより密接になったのは、慶長3年(1598)、上杉景勝の越後春日山から会津若松への転封(てんぽう)のときであった。
これは、蒲生氏郷の死後、家康と伊達政宗の間に楔(くさび)を打ちこむ必要から、秀吉の命令によって進められたものであるが、このとき、三成は自ら会津に乗りこみ、兼続と一緒になって国替にともなういくつかの難問を解決していた。実際、このとき、三成と兼続が連名で出した文書も残っており、景勝の転封がスムーズに進んだという印象がある。
このように、三成は、問題が生じた現場に自ら足を運び、問題解決に力を貸していた。このフットワークの軽さが、人脈作りに好結果をもたらしたことはいうまでもない。「人望がなかった」といわれることの多い三成であるが、勝者の書いた勝者の歴史では、どうしても悪者に描かれる傾向がある点は、きちんとみておかなければならない。
第8回 戦国武将たちの先見性と決断力
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
第4回 織田信長と黒田官兵衛の情報収集力
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
第6回 豊臣秀吉と黒田如水(黒田官兵衛)のプレゼンテーション力
第5回 武田信玄と武将達の褒める効用
第4回 織田信長と黒田官兵衛の情報収集力
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
第2回 諫言(かんげん)を受け入れる度量 ~武田信玄の場合~
Posted by 日刊いーしず at 12:00