2013年05月24日
第3回 織田信長と石田三成のリスクマネジメント
|織田信長は撤退をリセットと考えた
元亀(げんき)元年(1570)4月20日、織田信長は2万の大軍を率いて京都を出陣し、越前に向かった。再三の呼び出しに、越前の朝倉義景が応じなかったからである。その頃、義景は既に足利義昭と気脈を通じていた。義昭は信長のおかげで第15代将軍にはついたものの、実権は信長が握り、不満を親しい大名にもらしはじめていたのである。
織田軍が越前に攻め入り、木の芽峠を越えようとしたまさにそのとき、織田の妹お市が嫁ぎ、信長の同盟軍だった近江小谷城主の浅井(あざい)長政の謀反が信長に伝えられた。信長は、はじめ、『信長公記』によると、「虚説たるべし」といって本気にはしなかったという。当時、嘘の情報を流して敵を攪乱(かくらん)するのが戦法としてよくみられたからである。しかし、第二報、第三報が入るに従い、長政の謀反は確実だということが明らかになった。
木の芽峠を越えれば、朝倉義景の本拠一乗谷はすぐそこである。このような場合、ふつうの武将なら、背後から攻めてくるであろう浅井軍に備えを残し、本隊はそのまま一乗谷に攻め込んでいったと思われる。
ところが、このとき、信長は全軍に撤退を命じているのである。リスクマネジメントを考え、それ以上の攻撃続行は危険と判断したことになる。負け戦ならまだしも、勝ち戦のとき、撤退の判断を下すのは容易でないと思われる。
また、戦国武将の当時の一般的な考えとして、「負け候へば、自害におよび候こと、侍の本用に候」などといって、負けたならば、そこで潔く腹を切るのが本当の侍だという意識があり、負けて逃げもどるのは恥だとの観念もあり、信長でなければ、そこに踏みとどまり、前面の朝倉軍と、背後の浅井軍とに挟まれて戦いになる可能性があった。
信長は、金ヶ崎城に秀吉・明智光秀、それに池田隆正の3人を残し、琵琶湖の西岸、朽木谷(くつきだに)経由で京都に逃げもどっている。信長に従う者はわずかに十数騎だけだったという。
ちなみに、この時、殿(しんがり)として金ヶ崎城に残された秀吉らが朝倉軍の追撃を止め、「藤吉郎金ヶ崎の退き口」といわれ、秀吉の武功を物語るものとなっているが、実際は明智光秀も働いていたのである。その後、池田隆正は鳴かず飛ばずで終え、光秀は山崎の戦いのあと殺されているので、本当は3人であげた手柄なのに、秀吉の一人占めという形で語り伝えられることになった。
ふつうの武将の感覚だと、2万の大軍で威風堂々と出陣しながら、わずか十数騎に守られ、ボロボロになって逃げ帰ってくる姿はみせたくないと考えるところであろう。信長は、撤退を1つのリセットと考えていたものと思われる。「また、一からやり直せばいい」ととらえたのである。失敗をズルズルあとまで引くのではなく、人生、やり直しがきくということを、信長は今日の我々に教えてくれているのではないだろうか。
|石田三成の瞬時の好判断
神沢貞幹(かんざわさだもと)の『翁草』および岡谷繁実の『名将言行録』に、石田三成に関する興味深いエピソードが載っている。何年何月のことかの記載はないが、大雨で淀川の水が増水し、河内堤が切れそうになったことがあった。
大阪の町は、大和川や平野川が淀川に注ぎ込む位置にできていて、大阪城は二重、三重の水堀によって囲まれ、「八百八橋」(はっぴゃくやばし)といったいい方もあるように、水の都であった。
河内堤が切れれば、町はおろか、秀吉のいる大阪城まで水浸しになってしまう恐れがあった。このときは、秀吉自身も雨をついて京橋口まで出て様子を見守っており、諸大名も家臣たちを動員し、土俵を積んで何とか堤防の決壊だけは防ごうと必死になっていた。
ところが、この時の雨は記録破りの大雨だったらしく、淀川の水かさはみるみるふえていき、決壊の危険がさしせまっていた。それを防ぐためにはどんどん土俵を積んでいかなければならないわけであるが、大雨を予想して、事前に大量の土俵を用意していたわけではないので、対策を協議しても名案が出ることもなく、秀吉以下、水かさがふえるのを、ただ、手をこまねいてみているしかなかったのである。
五奉行の1人、石田三成も現場に出て成り行きを見守っていたが、ただ1基、決壊しそうな場所を検分し、取って返し、当時、京橋口にあった大阪城の米蔵の扉を開かせ、中に積まれていた数千俵の米俵を決壊箇所に運ばせたのである。つまり、三成は、土俵の代わりに米俵を積んで決壊をくいとめようとし、みごと成功させている。
これは、秀吉も考えつかなかった好判断で、三成のリスクマネジメントが好結果をもたらしたことになる。
このエピソードからいくつかのことが浮き彫りになってくる。1つは、三成の「計数の才」である。堤防が決壊し、大阪中が水浸しになったときのリスクの大きさと、米俵数千俵の損失額とを瞬時に計算し、米俵を犠牲にした方が損失が少ないと判断したものと思われる。
もう1つは、三成が秀吉の許可を求めることなく、独断で米俵を運ばせていた点で、声は、三成が秀吉の信頼を得ていたからこそできた芸当だったといえる。
なお、この話には後日譚(ごじつたん)がつく。三成は、村々に土俵作りを命じ、それを、雨が上がり、水が引いた決壊箇所に運ばせ、土俵1表と米俵1表とを交換したというのである。米は水にぬれてはいるが、乾燥させればふつうの米として食べられるので、百姓たちは喜んで土俵作りと、土俵と米俵の交換に従事したという。
元亀(げんき)元年(1570)4月20日、織田信長は2万の大軍を率いて京都を出陣し、越前に向かった。再三の呼び出しに、越前の朝倉義景が応じなかったからである。その頃、義景は既に足利義昭と気脈を通じていた。義昭は信長のおかげで第15代将軍にはついたものの、実権は信長が握り、不満を親しい大名にもらしはじめていたのである。
織田軍が越前に攻め入り、木の芽峠を越えようとしたまさにそのとき、織田の妹お市が嫁ぎ、信長の同盟軍だった近江小谷城主の浅井(あざい)長政の謀反が信長に伝えられた。信長は、はじめ、『信長公記』によると、「虚説たるべし」といって本気にはしなかったという。当時、嘘の情報を流して敵を攪乱(かくらん)するのが戦法としてよくみられたからである。しかし、第二報、第三報が入るに従い、長政の謀反は確実だということが明らかになった。
木の芽峠を越えれば、朝倉義景の本拠一乗谷はすぐそこである。このような場合、ふつうの武将なら、背後から攻めてくるであろう浅井軍に備えを残し、本隊はそのまま一乗谷に攻め込んでいったと思われる。
ところが、このとき、信長は全軍に撤退を命じているのである。リスクマネジメントを考え、それ以上の攻撃続行は危険と判断したことになる。負け戦ならまだしも、勝ち戦のとき、撤退の判断を下すのは容易でないと思われる。
また、戦国武将の当時の一般的な考えとして、「負け候へば、自害におよび候こと、侍の本用に候」などといって、負けたならば、そこで潔く腹を切るのが本当の侍だという意識があり、負けて逃げもどるのは恥だとの観念もあり、信長でなければ、そこに踏みとどまり、前面の朝倉軍と、背後の浅井軍とに挟まれて戦いになる可能性があった。
信長は、金ヶ崎城に秀吉・明智光秀、それに池田隆正の3人を残し、琵琶湖の西岸、朽木谷(くつきだに)経由で京都に逃げもどっている。信長に従う者はわずかに十数騎だけだったという。
ちなみに、この時、殿(しんがり)として金ヶ崎城に残された秀吉らが朝倉軍の追撃を止め、「藤吉郎金ヶ崎の退き口」といわれ、秀吉の武功を物語るものとなっているが、実際は明智光秀も働いていたのである。その後、池田隆正は鳴かず飛ばずで終え、光秀は山崎の戦いのあと殺されているので、本当は3人であげた手柄なのに、秀吉の一人占めという形で語り伝えられることになった。
ふつうの武将の感覚だと、2万の大軍で威風堂々と出陣しながら、わずか十数騎に守られ、ボロボロになって逃げ帰ってくる姿はみせたくないと考えるところであろう。信長は、撤退を1つのリセットと考えていたものと思われる。「また、一からやり直せばいい」ととらえたのである。失敗をズルズルあとまで引くのではなく、人生、やり直しがきくということを、信長は今日の我々に教えてくれているのではないだろうか。
|石田三成の瞬時の好判断
神沢貞幹(かんざわさだもと)の『翁草』および岡谷繁実の『名将言行録』に、石田三成に関する興味深いエピソードが載っている。何年何月のことかの記載はないが、大雨で淀川の水が増水し、河内堤が切れそうになったことがあった。
大阪の町は、大和川や平野川が淀川に注ぎ込む位置にできていて、大阪城は二重、三重の水堀によって囲まれ、「八百八橋」(はっぴゃくやばし)といったいい方もあるように、水の都であった。
河内堤が切れれば、町はおろか、秀吉のいる大阪城まで水浸しになってしまう恐れがあった。このときは、秀吉自身も雨をついて京橋口まで出て様子を見守っており、諸大名も家臣たちを動員し、土俵を積んで何とか堤防の決壊だけは防ごうと必死になっていた。
ところが、この時の雨は記録破りの大雨だったらしく、淀川の水かさはみるみるふえていき、決壊の危険がさしせまっていた。それを防ぐためにはどんどん土俵を積んでいかなければならないわけであるが、大雨を予想して、事前に大量の土俵を用意していたわけではないので、対策を協議しても名案が出ることもなく、秀吉以下、水かさがふえるのを、ただ、手をこまねいてみているしかなかったのである。
五奉行の1人、石田三成も現場に出て成り行きを見守っていたが、ただ1基、決壊しそうな場所を検分し、取って返し、当時、京橋口にあった大阪城の米蔵の扉を開かせ、中に積まれていた数千俵の米俵を決壊箇所に運ばせたのである。つまり、三成は、土俵の代わりに米俵を積んで決壊をくいとめようとし、みごと成功させている。
これは、秀吉も考えつかなかった好判断で、三成のリスクマネジメントが好結果をもたらしたことになる。
このエピソードからいくつかのことが浮き彫りになってくる。1つは、三成の「計数の才」である。堤防が決壊し、大阪中が水浸しになったときのリスクの大きさと、米俵数千俵の損失額とを瞬時に計算し、米俵を犠牲にした方が損失が少ないと判断したものと思われる。
もう1つは、三成が秀吉の許可を求めることなく、独断で米俵を運ばせていた点で、声は、三成が秀吉の信頼を得ていたからこそできた芸当だったといえる。
なお、この話には後日譚(ごじつたん)がつく。三成は、村々に土俵作りを命じ、それを、雨が上がり、水が引いた決壊箇所に運ばせ、土俵1表と米俵1表とを交換したというのである。米は水にぬれてはいるが、乾燥させればふつうの米として食べられるので、百姓たちは喜んで土俵作りと、土俵と米俵の交換に従事したという。
Posted by 日刊いーしず at 12:00